日航機の遺書一家、15年目の出産ラッシュ 世紀末蔵出しワイド
飛行機がガタガタ揺れるたびに思い出す人がいる。一九八五年八月十二日、日航機事故。群馬県の御巣鷹山山中に墜落し、乗員乗客五百二十人が死亡したが、あのダッチロールのなか、必死で家族への思いを綴った遺書を残した人がいた。大阪商船三井船舶の神戸支店長、河口博次さん(当時52)である。
小さな手帳に書かれた七ページの遺書は、日本だけでなく多くの海外メディアでも紹介された。三年後には同僚や友人が協力して、『河口博次追悼集』も出版されている。
河口さんは月に一度、東京本社で行われる部・支店長会議を終え、単身赴任先の芦屋に戻るため、日本航空123便に乗り合わせた。「出張のときは金曜の夜に帰ってきて、火曜の朝早く戻ることが多かったのですが、あの日はどうしても十二日(月曜)中に戻りたいと言っていました。お盆の混雑を見越して、かなり前から予約していたようです」
と妻の慶子さん(67)が言う。
最後の週末、家族で食事し、そのあと河口さんは長女の真理子さんにこんな話をしている。
「人間は常に、あらゆる事態に対応できるよう、用意して行動しなくてはいけないよ」
もっとも真理子さんには軽く受け流された。
「用心しすぎは体に毒よ」
この日の昼間、慶子さんはあることを思いついた。
「『ちょうどいい機会だから、津慶、パパにネクタイの結び方習っておきなさい。あなたもそろそろ就職活動なんだから』って。二人とも最初は乗り気じゃなかったんですが。結局、津慶が初めてネクタイを締めたのは、主人の葬儀でした」
当時、長男の津慶さんは大学四年生。ときに河口さんに反発していた。「主人はよく働く人でしたが、家族にもとても関心を持っていて、煙たがられても言うべきことは言っていました。津慶も、正論とわかっていても、うるさいと感じていたみたいです」
その津慶さんが遺体の確認に行き、遺品の手帳をパラパラとめくっているうちに遺書を発見した。
「津慶はそれまで自分が頼られているとは思ってもいないようでした。でも遺書で『た(の)んだぞ』の文字を見て、初めて父親の気持ちを素直に理解できたのだと思います」
津慶さん(36)は今、アメリカのデトロイトにいる。ガラス製造会社に入社、自動車用の窓ガラスの開発プロジェクトを担当している。長女の真理子さん(39)は大学院を卒業後、証券会社系のシンクタンクに勤務。次女の知代子さん(32)は大型雑貨店に勤務している。
今年、河口家は出産ラッシュを迎えた。五月に初孫となる、津慶さんの長女が生まれ、十二月には真理子さんも出産を控えている。
慶子さんは言う。
「主人とは大学の同級生で、ずっと良いパートナーでした。結婚するときも、新婚当時も、よく手紙をもらいました。だから、遺書で『ママをたすけて下さい』とあったのも、数年前に病気をした私をまず心配してくれたのかなと思いました。子供は大切だけど、お互いを第一に気遣う、そんな関係でした」
十五年たって、天国の河口さんも、ようやくおじいちゃんになった。
<河口さんの遺書>(原文のまま)
マリコ
津慶
知代子
どうか仲良く
がんばって
ママをたすけて下さい
パパは本当に残念だ
きっと助かるまい
原因は分らない
今5分たった
もう飛行機には乗りたくない
どうか神様
たすけて下さい
きのうみんなと
食事したのは
最后とは
何か機内で
爆発したような形で
煙が出て
降下しだした
どこえどうなるのか
津慶しっかりた(の)んだぞ
ママ
こんな事になるとは残念だ
さようなら
子供達の事を
よろしくたのむ
今6時半だ
飛行機は
まわりながら
急速に降下中だ
本当に今迄は
幸せな人生だったと
感謝している