開けてびっくり、どこにも手塚治虫 赤塚不二夫 聞けなかった遺言
手塚先生との関係は、「僕」ではなく「僕たち」でした。同じころに漫画家を目指して上京したトキワ荘の仲間を、先生も「君たち」と言って、分け隔てしなかった。でも、先生は親切に後輩を育てながら、一方で蹴落とそうとするんです。ライバル心むき出しで、それがバネになって作品の幅が広がっていく。
中学生のとき、「ロストワールド」を読んで驚愕しました。スケールの大きさに参った。当時は少年小説が人気でね。将来は、血わき肉躍る物語を書く小説家になろうと思っていたんですが、漫画家に切り替えた。藤子不二雄も石ノ森章太郎も、みんなそうです。
初めて会ったのは一九五四年。石ノ森と一緒に「並木ハウス」を訪ねたら、先生は、「いいから、いいから」と仕事そっちのけ。
「漫画家になりたい?それじゃあね、漫画家から漫画を勉強するのはやめなさい。その人に追いついても、追い越せないよ。それよりも、一流の映画、芝居、本、音楽に接しなさい」
さっそくレコード屋に駆け込んで、店のきれいな女性にすすめられて買ったのが、チャイコフスキーのピアノコンチェルト第一番でした。
トキワ荘の連中は、ろくなものを食べてなかったけど、夢中で映画を見たり、音楽を聴いたり。これが基礎になって、この仕事を四十年も五十年も続けてこれた。「おそ松くん」も、「1ダースなら安くなる」というハリウッド映画で、十二人の子どもが出てくるのをヒントにしたんです。
手塚作品は、「開けてびっくりどこにも手塚」と言われるほど、どの漫画雑誌にも載っていた。ただ、締め切りは守らない人で、一週間遅れはザラ。編集者が、僕らのいたトキワ荘に立ち寄って、
「ちくしょー。あのヤロー。今日も描いてくれなかった」
と男泣きしていく。間に合わないのに、なんで引き受けるのか、と先生に聞くと、
「違うんだよ、君」
と、いつもの口癖が出て、
「おもしろい作品を描きたいじゃないか」
僕にとってはとにかく「手塚先生ありがとう」なんです。僕も藤子不二雄も石ノ森も、筒井康隆も篠山紀信も横尾忠則も、みんな手塚ファンですから。