ジャイアント馬場の控室の技 スタン・ハンセン 聞けなかった遺言

 私が日本を思うとき、二十世紀のアイコン(肖像)として、ジャイアント馬場が姿を現してくる。

 私は一九七〇年代は主にアントニオ猪木率いる新日本プロレスのリングに立ち、八二年から今日までジャイアント馬場の全日本プロレスで、仕事に打ち込んだ。

 来日するまで、団体を動かすプロモーターにはいい印象を持っていなかった。

 しかし、馬場との出会いによって、安定した仕事を求めていた私の望みはかなえられた。われわれの友情関係は二十数年に及んだ。

 猪木と馬場はタイプの違うプロモーターだった。

 リングの猪木は、革新的なレスラーだった。プロモーターとしても、自分をレスラーの頂点に置いた。これは新日本が興行的に成功した要因でもあったが、新しいタレントが育ちにくいという欠点もあった。

 馬場は全日本の現役トップで活躍しながら、鶴田や天龍ら多くのスターを世に送り出した。若かった三沢をタイガーマスクとして登場させ、ほかの若手を奮い立たせる手腕も見せた。

 控室に座るプロモーター馬場は、常に十年単位で物事を考えていた。彼から、他人をとやかく言うコメントは聞いたことがない。物静かな語り口に意志の強さを秘め、スマートで思慮深く、どんなときでもマイペースを貫く人だった。

 馬場は複数で話をするときは必ず通訳をつけたが、私と一対一のときには英語を使った。会話には何ら不自由を感じなかった。プロレス以外の場所で、英語を学んでいたのだと思う。

 十一月の感謝祭は、タッグシリーズとぶつかる。彼とミセス馬場はその日の意味を理解していて、伝統的なターキーディナーを用意してくれた。神に感謝する大切な日に家族のもとを離れているわれわれの心を、この贈り物がどんなに癒してくれたかしれない。

 幼い私の二人の子供を、地方の小さな試合会場に連れていったときのことだ。

 馬場の話を聞かされていた子供たちは、控室に入るなり馬場に抱きついて離れない。そのときの何ともいえない彼の表情を今も覚えている。予想もしなかった子供たちの抱擁を心から楽しむように、大きな体で二人を包み込み、馬場はやさしくほほ笑んでいた。

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