自分の停滞を人のせいにして、すねていた
インスタも書くものも子どもばかりになってしまった友人を見ては、ほんと子ども産むとみんなつまんなくなって嫌だと思っていました。いくつになっても、あそこの歓楽街のホストが最近アツいらしいとか、あそこのクラブのVIPは結構いい客が来てるとか、来週シンガポールで爆買いしようよとか、そんな話だけしていたいこちらとしては実に納得がいきません。
そんなわけで自分がくさくさしていたり停滞していたり、あるいはずっと若いままでいたいのにそういうわけにもいかなくて悲しい、と思ったりすることを、すべて人のせいにして生きてきたので、「素直に喜べない自分が悲しい」と感じてしまうのはむしろとても奇特な方だなぁと感心してしまいます。私はそんな殊勝なところはないので、「ほんとアイツらは変わっちまったぜ」と基本的にすねていましたし、今もその精神性はそんなに変わっていません。
ただ、そういうこちらもまったく変わらずにいるのは不可能。時期が来れば学校は卒業するし、身体は老化したり太ったり疲れやすくなったりするし、若手のつもりでいた職場で中堅になっていたりもする。そういう自分の変化は必然的なもの、仕方がないものとして処理して、他人の変化は「おもしろくない」と感じる私はちょっと都合がいいとも思います。
要はみんな自分の人生の歩幅も好みも方向もそれぞれなわけで、あらゆる事情が違う人間が同じ空間で机を並べていた学生時代のほうが異常で特殊といえば異常で特殊なのであって、その時代に似たような生活を送っていたものが、時間とともにまったく違うステージに立っているのは当たり前なのです。相手は相手で、あの人はなんか遠くに行ってしまったな、とか、自分とはもう価値観から何から違っちゃっただろうな、とか思っているかもしれません。