日本には昔から「粋」という概念がある。この「粋」の対極にあるのが「野暮」である。いわゆる「野暮ったい」の野暮であり、洗練されていないこと、ダサいことを意味する。哲学者、九鬼周造氏は『「いき」の構造』(岩波書店)で、「粋」といわれるには、ただその時代の流行をセンスよくとり入れるだけではダメで、一定の年季と教養が必要であると述べている。そして、粋とは異性に認めてもらいたいオシャレのことだとも言及している。
『人は見た目が9割』(竹内一郎著、新潮社)という著書が売れた時代もあった。人はなぜオシャレをするのか? 例えば男性であれば、「若く見られたい」「素敵と思われたい」という気持ちから外見が気になるようになり、クジャクのオスが色鮮やかな羽を広げてメスの歓心を得ようとするように、オシャレをしたくなるのではないだろうか。
作家の渡辺淳一氏はその著書『熟年革命』(講談社)の中でこう述べている。「異性の視線を意識することがオシャレのきっかけとなり、最も手っ取り早い方法は恋をすることである」と。また出版プロデューサーであり生活経済評論家でもある川北義則氏は『男の品格』(PHP研究所)で「異性との付き合いが若々しさを保つ秘訣である」と述べている。異性と付き合うことでお互いに緊張するから立ち居振る舞いにも気をつけるようになり、オシャレにも気を配る。そんな神経の使い方がいつまでも若々しさを保つことにつながると言及している。
老年医学者として私も彼らの意見には賛同する。高齢期を迎えた男性にとって、オシャレとは「心と体の身だしなみ」と心得、無理せず自然に身に着けるべきものと考えている。異性との駆け引きや恋愛との関わりを抜きにしても、オシャレは楽しく、若さを保つために有用なものと考える。
日本には、「見た目より内面が大事」という考え方が根付いているが、私はこの考え方は古いと思う。確かに内面は大事だが、それと同じくらい、いや、それ以上に外見も大事である。「馬子にも衣装」ということわざがあり、それには「見た目が悪い人でも外見を飾れば立派に見える」という、あまりよくない印象を与える響きがあるが、発想を転換すれば「外見を若々しく整えれば心もおのずと若々しくなる」ということではないか。若々しく整えるというのは、何も無理をして若作りするということではない。