東海道線や中央線がまだ「国鉄」だった頃、特急や急行の車内アナウンスの前によく流れたオルゴールの旋律といえば、多くの人がまっ先に思い浮かべるのが『鉄道唱歌』ではないだろうか。その第一集の冒頭第1番の歌詞「汽笛一声新橋を はや我が汽車は離れたり……」は有名だが、その先も品川、大森、川崎、神奈川……と線路に沿って延々と続いていく。ちなみに終点の神戸は第65・66番である。

 この唱歌が世に出たのは19世紀最後の年にあたる明治33年(1900)。当時この歌を実際に66番まで通して歌う酔狂な人がいたかどうか知る由もないが、とにかくこの「第一集」が発行されるや、飛ぶように売れた。気を良くした大阪市の版元・三木楽器は、この年のうちに第二集「山陽・九州」、第三集「奥州線・磐城線」、第四集「北陸地方」、第五集「関西・参宮・南海各線」を相次いで刊行、合計なんと1000万部に達したという。当時の日本の人口が4500万ほどであったことを考えれば、まさに尋常な数字ではない。

 この唱歌では曲を2通り用意し、楽譜を提示して「どちらか好きな方で歌ってください」とする珍しい趣向をとったが、現在でもよく知られているのは雅楽の家に生まれた多梅稚(おおのうめわか)が作った方で、旋律には日本の伝統的なヨナ抜き、つまりドレミファソラシのうち第4・第7音が抜けた5音音階(陽音階)が用いられた。

 さて、このベストセラー唱歌の作詞は、第五集まですべて大和田建樹(おおわだたけき)が担当した。幕末の1857(安政4)年に伊予国(愛媛県)宇和島藩士の子として生まれ、広島外国語学校などを経て29歳で東京高等師範学校(現筑波大学の源流)の教授に就任、5年後に退職して文筆家となっていた頃、ほぼ43歳の時の仕事がこの『鉄道唱歌』である。

 唱歌の歌詞には鉄道沿線の名所旧跡、それにご当地グルメや新たに開通した電車などの新名所も併せて詠い込まれ、人の移動が今よりはるかに少なかった当時にあっては、知らない土地の話題を簡潔に教えてくれる、魅力的なガイドブックという位置づけだったようだ。

 現代的な感覚で読むと、菅原道真(すがわらのみちざね)や楠木正成(くすのきまさしげ)といった「悲劇の英雄」に寄せる作詞者の思いが強すぎて戸惑うこともあるが、当時は名所旧跡を近代歴史学的な社会科学の対象としてではなく、誰もが共有する「物語の場所」と捉えていたようだ。また、その念の籠った場へ赴くことこそが旅である、という江戸時代的な旅行観が、まだまだ当時は色濃く残っていたことを教えてくれる。

 タイトルが単に『鉄道唱歌』ではなく、「地理教育」を冠していたのも爆発的に売れた要因ではないか、という指摘もある。この唱歌の形式が、江戸時代の寺子屋の教材として全国的に採用されていた「国尽(くにづくし)」や「村尽(むらづくし)」に通じるところが大きく、この伝統的な地理・地誌教育の背景が、この唱歌への圧倒的な支持をもたらしたのかもしれない。ちなみに「国尽」「村尽」とは、国名や地元の村、その中の小地名(字名など)を羅列するようなものだが、リズム良く七五調で覚えやすく工夫されていた。もちろん唱歌も七五調である。

 思えば1900(明治33)年といえば、東海道線が11年前に全通し、東北・常磐線も全通、北海道でもだいぶ路線を延ばし、山陽本線も三田尻(みたじり)(現防府・ほうふ)まで、九州でも門司(もじ)(現門司港)を起点に本、長崎あたりまではカバーしていた。唱歌が発売される直前・直後に開通する例も目立ち、要するに日本国内では急速に幹線鉄道網が整いつつあった時代である。

 最終のひとつ前の第65番の歌詞には「おもへば夢か時のまに 五十三次はしりきて 神戸のやどに身をおくも 人に翼の汽車の恩」と感慨深げに記されているが、従来は2週間あまり、ひたすら歩いてようやくたどり着く距離であった江戸から神戸まで、今は急行列車でわずか16時間半(現代人には耐えられない遅さだろうけれど)、まるで人間に翼でも生えたかのような、という感動が伝わってくる。

 この頃、人や物を大量・高速に運ぶ鉄道の威力は、路線の急伸長に応じて多くの人に知られるところとなっていた。数年前の日清戦争で人員・兵器輸送に大活躍したことも記憶に新しかっただろう。

 この「新交通システム」の登場は、それまで村から出ない生活に終始した多くの人の目を外に向けさせ、それが新しい産業の勃興を促していく。人の流れのある所に線路が敷かれるのはもちろんだが、その線路を走る汽車が、さらに需要を喚起していったのである。司馬遼太郎さん風に言えば、近代はまさに沸騰しつつあった。ぜひとも本書で「明治の空気」を味わっていただきたい。