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「できれば、被爆者の方と友だちになってもらえたら」
岡本は初めて参加した7年前に安彦の口からこの言葉を聞き、驚いた。普段、小中学校に請われて被爆証言をしにいくと、丁重に迎えられる半面で「特別な人」として扱われ、子どもや教員との間に距離を感じてしまいがちだという。「でも安彦さんは『友だち』と言った。そんな風に言ってくれる人に出会ったことはなかった」
安彦が大きな影響を受けた被爆者に、昨夏に亡くなった中西巌(享年93)がいる。国際NGO「ピースボート」の船旅で出会い、その後も友人として付き合い食事を重ねた。あるとき、中西は生徒500人以上が原爆で全滅した女学校の跡地に立つ慰霊碑の前で言った。「校長先生は自分が生き残ったことをずっと悔い続けた。私にもね、そういう思いがあるよ」。その一方で、軍都・広島の戦争加害の歴史も伝えようとした。「なぜ戦争をするのか」「人間とは何か」。語り合う中で安彦は「原爆は中西さんの頭の上で炸裂(さくれつ)した。いまも世界には1万2千発以上の核兵器がある。核問題は『自分ごと』なんだ」と実感していった。
そんな安彦はどんな子どもだったのか。
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茨城県守谷市生まれ。1学年上の兄とザリガニ釣りをしたり、草木で秘密基地をつくったりして遊ぶ活発な子だったが、小学4年生で隣町へ引っ越すと状況が一変した。夜中まで工場を営む両親は朝が遅く、安彦はほぼ毎日遅刻した。校門前の自宅から毎朝、チャイム後に校庭を駆け抜け教室へ。体育のバスケットボールでは腰を落とし全力でドリブル。小中学校からの親友、福井美弥子(45)は「そんなのを見て高学年の『お年頃』の女子たちは『ださーい。恥ずかしくない?』みたいな。恵里香はまっすぐで感受性が強いから、人の言葉をそのまま受け取って喜んだり泣いたりする。ちょっかいを出すとムキーッて怒るから、周りはからかいがいがあったと思う」と振り返る。
いじめられた中学時代 ピースボートで世界を知る
自転車通学だった中学校では担任に遅刻の理由を問われ「向かい風だったからです」と真剣に答え、ビンタされた。教室で後ろの男子にしつこく机をぶつけられ、椅子を振り上げて怒ると周りは声をあげて笑った。次第に本心を表に出さなくなり、中学校は3分の1を欠席。自宅で独り、テレビを見て過ごした。深夜ラジオを聴き、X(現X JAPAN)やLUNA SEAといったビジュアル系バンドにはまった。高校時代は常磐線で原宿に通って黒ずくめの衣装を買い、染めた髪を逆立ててライブに足を運んだ。
卒業後は美容師をめざそうとしたが、両親の工場の経営が傾いて専門学校への進学をあきらめた。母親のつてで勤めた不動産会社は居心地がよく5年を過ごしたが、知り合いがピースボートに乗ったという話を聞いて心が動いた。両親から若い頃に米国を旅した経験を聞かされて育ち、もともと抱いていた海外への興味が抑えられなくなった。