「周りは親が医者だったりする裕福な家庭の子どもでいっぱい。負けたくないと思って勉強したら、塾で1番になりました」
そして見事、灘中に合格。受験の際、併願は一切しなかった。
田内さんの父の「灘に入るために引っ越しまでしたんだから、他の学校を受験しても意味がない」という考えからだった。目標に突き進む親子。
無事に東大に入り、1年生のときプログラミングを独習した。
「学費と生活費を稼ぐために、ガーラという会社でアルバイトをしました。日本初のSNSをつくった会社です」
大学3年次には国際大学対抗プログラミングコンテストに東大代表で出場。アジア大会で入賞したが、心中は複雑だった。
「アジア大会6位の成績でした。プログラミング歴2年なのによく入賞したと思う半面、
『テクノロジーに強いはずの日本なのに東大代表で6位ってショボいな』って感じになって。このとき『自分が日本を代表してがんばらなきゃ』と思いました」
それ以来、田内さんは「世界に出て戦いたい」と考えるようになった。
「大学院1年目、就職活動のときに得意な数学を生かせる仕事が金融にあると知り、ゴールドマン・サックスに入りました。
今になって思うと、就職せず起業する選択肢もあったんですよね(笑)」
安倍首相に会える
16年間働き、田内さんは金融マンから「社会的金融教育家」へ舵(かじ)を切る。
「友人に『経済問題が表面的なことでしか議論されていないから本を書きたい』と言ったら、編集者を紹介してくれることに」
そこで出会ったのが、敏腕編集者として知られる佐渡島庸平氏だった。
「佐渡島さんは非常に忙しい人で。
『1カ月以上先の、この30分なら』って言われて会い、僕の問題意識を伝えたら、佐渡島さんは『難しい話だけど、うまく言語化できたらおもしろそうだ』『言ってることが正しければ、本を出せば(国を率いる)安倍(晋三首相・当時)さんにだって会える。それが本を出すということだ』と。
安倍さんにも伝わるのか、そうか! ものすごくやる気になって、すぐ会社を辞めて、修行をはじめたんです」