曾祖父奥田頼太郎の墓は金沢市内の有名な観光スポット忍者寺(日蓮宗妙立[みょうりゅう]寺)のすぐ近くの曹洞宗常松(じょうしょう)寺にあった。前住職の山崎邦明が親切に出迎えてくれ、お経もあげてくれたが、墓にはここ10年以上訪れる人もなかったという。
同行してくれた「北國(ほっこく)新聞」編集委員竹森和生は言う。
「一向一揆が治めていた加賀を柴田勝家が滅ぼし、その柴田も秀吉に滅ぼされ、前田家が治めるようになった。その前田家が信奉したのが曹洞宗。いわば武家の宗派で、このお寺にお墓がある家はみな加賀藩士」
明治維新によって、廃藩置県があり、藩士たちはちりぢりとなった。前住職の山崎によれば、そうした流れの中で、檀家は減り続け、今では50ほどに減ってしまったという。
先々代の住職は、手入れをすることもなく荒れ果てた墓に業を煮やし、墓場の敷地の土を全部コンクリートで固めてしまった。
前住職が本堂の中を案内してくれ、そこには、常松寺由来書という文書があった。前田家家老の山崎閑斎の宅地のなかに1601年に建立されたのをその始まりとする、という。
「山崎閑斎は前田の有力家臣です。関ケ原で武勲をたて、1万4000石を封じられました」(竹森)
竹森はこの常松寺のあと、武家が茶屋遊びをしたその当時の町並みが残る「ひがし茶屋街」を案内してくれた。
「ここの地区は、2001年、伝統的建造物群保存地区に指定されるんですが、地元の人たちはずっと反対していたんです。地元の人たちにとっては、ただ生活している場で、そんな地区に指定されて、観光名所になったりすると、家の中を覗き込まれたり、入り込まれたり、うるさくなったりしてかなわない、という言い分でした」
そこをなんとか説得して保存地区に指定されたのだが、竹森によれば、「そこが金沢が京都と違うところ」と言う。
「こうした武家の時代から続く古い町並みは自分たちが楽しむもので、観光のためによそに見せるものではない、というのが地元の人々の意識です」