竹森は、2022年に「美(うま)し金澤」という「金沢とは何か」を考える連載をもった。その中で劇作家の山崎正和の言葉を引きながらこんなことを書いている。
<ここで再認識しておきたいのは、金沢の本質が「文化の自家消費」にあるという点だ。金沢言葉で言うならば、「じわもん(自椀物)」で文化を味わう、ということになろうか>
実はこの言葉はそのまま「北國新聞」の編集方針にもつながる。
私はずいぶんと地方紙をみてきたが、いつも不満に思っていたのが、なぜ共同通信の全国ダネや国際ダネを歌舞伎の十八番のように、一面に持ってくるのか、ということだった。これでは、全国紙と変わらないし、共同の記事は、それぞれの県の読者にむけて書かれたものではない。
しかし、「北國新聞」は、共同の記事を一面に使うことはほとんどない。一面には平気で地元の記事しかも文化や歴史についての記事が掲載される。それは、石川の読者は「じわもん」で味わいたいことをわかっているからだ。
また、一面以外の記事も、アングルに工夫のある記事が多い。たとえば3月9日には、金沢の全小学校で飼育されているうさぎの数の推移を調べて、5年で半減したことが社会面で大きく扱われている。記事は、教員の「働き方改革」との関係のなかからうさぎ飼育の減少を分析しているところがみそだ。
ようは、記者の創意工夫がある記事を大きく扱うのだ。だから面白い。
前号で、編集局出身の専務小中寿一郎(こなかじゅいちろう)の「新聞界で北國新聞の紙面は評価されていない」という自虐を紹介したが、その理由は、原発問題などで保守的な立場(北國新聞に言わせれば現実的な立場)をとってきたからだろう。が、そのことだけで判断するのは、そもそも判断する側がある価値観にからめ捕られているからだ。
大分合同新聞の編集局長の下川宏樹は大のプロレスファンで、地元大分のプロレスの試合結果を、新聞に載せたがっていたが、果たせていない。新聞にはむかない、という「常識」に逆らえなかったからだ。しかし「北國新聞」は違う。今年1月3日の一面には日本武道館で行われたプロレスリング・ノアの試合がでかでかととりあげられている。プロレスラーの馳浩知事が参戦したからだ。ジャイアントスイングで、相手レスラーを振り回す馳の写真の脇にはこんな川柳が短冊の見出しで斜めに入る。