大場の父・隆広は、別府鶴見丘の本格派左腕として、66年の第2回ドラフト(第一次)で中日の1位指名を受け、中日、近鉄、南海の3球団に計11年間在籍。プロでは故障に泣き、実働5年で登板37試合、0勝0敗、防御率6.00に終わった。
田村の父・政雄も、中央大時代に下手投げの好投手として東都リーグ通算39勝を挙げ、75年のドラフト1位で大洋に入団。“秋山登2世”の期待も、南海時代を含む実働5年で通算9勝16敗4セーブ、防御率6.11と大成できなかった。
父の南海時代の同僚・江夏豊の「豊」を貰って命名された大場は、上宮時代は140キロ台の速球投手で、打者としても高校通算38本塁打を記録。95年のドラフト4位で「意中の球団」巨人へ。1年目のオフにハワイのウインターリーグに派遣されたが、1軍の壁を破れず、98年秋から外野手として再スタート。しかし、“巨大戦力”の中で存在をアピールしきれないまま、01年限りで現役引退。現在は巨人の1軍マネージャーを務めている。
一方、市和歌山商時代に県下ナンバーワン左腕と注目された田村は、02年のドラフト8巡目で阪神入り。井川慶の後継者と期待され、06年にウエスタンで3勝を挙げたが、1度も1軍登板のないまま、07年オフに戦力外通告。入団テストを経て育成で入団したロッテでも、09年にイースタンで22試合に登板、防御率2.05の好成績を残したものの、翌10年は防御率9.82と低迷し、支配下登録されることなく、同年限りで現役引退、打撃投手になった。
1度は野球選手を断念しながら、初志を貫徹し、プロ入りの夢を叶えたのが、巨人、中日でプレーし、通算533犠打の世界記録を持つ川相昌弘の次男・川相拓也だ。
巨人時代の父が94年10月1日のヤクルト戦で決勝打を放ったときに、お立ち台で3人の子供たちの名前を連呼し、「パパ頑張ったよ!」と叫んだシーンを覚えているファンも多いはずだ。このとき、2番目に名前を呼ばれたのが、当時3歳の拓也だった。