苦しみは進歩の証ではない
ずっと昔、マインドフルネスのセミナーで出会った紳士と話をしていたときのこと。お互いのスピリチュアルな旅の物語を語り合っていると、彼が言った。
「大人になってからほとんどの時間を、怒ったり、落ち込んだり、不幸せな気分で過ごしていたんだ。でも、自分は元気だと思っていたんだよ」。
自分が落ち込んでいることに、ずっと気づかなかったという。あるとき妹に聞かれた。
「一体どうすれば、お兄ちゃんは幸せになれるの?」。
彼はびっくりして叫んだ。
「僕は幸せだよ!」。
それから数年後に、彼は泥沼の離婚劇を演じていた。健康問題も山ほど抱え、今にもノイローゼになりそうで、何とかしなくちゃ、とインド行きの片道航空券を手に入れた。そこで4ヵ月間一人旅をし、いくつもの瞑想センターを訪れて、導きを求めた。そうしてついに、ほしかった安心感と心の平和を手に入れた。
この紳士の話が面白いのは─そして、彼との出会いを思い出すたびに私が考えるのは─彼が心の平和と幸せを手に入れたあとになってようやく、自分がずっと不幸せだったと気づいたことだ。
「常々、自分はわりと幸せな人間だ、と思っていたんだ」と彼は言った。
不安にも不幸せにも慣れっこになって、サバイバル・ゾーンで暮らしているという自覚すらなかった。
ところが、コンフォート・ゾーンに戻った途端、自分がずっとストレスや不安にまみれ、不快だったことに気づいたのだ。
想像してみてほしい。
シートから画びょうが突き出ている椅子に腰を下ろす自分を。即座に飛び上がるのではないだろうか?
ただ残念ながら、私たちは、画びょうの上に座るのが当たり前になっているばかりか、そこに座りたがらない人間を批判するような社会で生きている。世間は言ってくるだろう。
「あなたが本当にやり手なら、タフで価値のある人間なら、実力を証明したいなら、あの画びょうの上に座ってごらんよ。きっと気に入るから! 文句を言ってはいけないよ。画びょうの上に座るのは、通過儀礼だからね。画びょうの上に長く座っていられればいられるほど、たくさんの画びょうの上に座っていられればいられるほど、あなたは強い人で、成功する資格がある」。