ちなみに、ここにはまた共通して「パイディア」という特徴もある。即興的な興奮だ。また、もうひとつの共通項がある。それは「ルドゥス」というもので、無償の困難に向かっていきたいという態度をともなっている。

 この「パイディア」と「ルドゥス」も遊びの本質であって、かつ編集の本質でもある。いわば、パイディア(熱狂)してルドゥス(困難)する――それが編集的遊びというものだ。

 カイヨワは、たぶんに身体的で感情的なパイディアとルドゥスをもとに遊びを分類しているのだが、編集の本質にひそんでいる遊びは、じつはもうすこし情報的である。どこが情報的なのかというと、編集工学では、身体が興奮したりスピードに乗るのと似て、アタマの中の情報回路そのものを加速するパイディアとルドゥスが芽生えるからである。過日のモントレーでのTEDで、「ヴァーチャル・リアリティ」(VR)の発案者のジャロン・ラニアーも、ライオンの鬣のような髪をたくしあげながら、「VRはパイディアなんだ」と言っていた。

 もうひとつ、カイヨワが言わなかったことがある。それは遊びでは〈ルールの群〉がスポーツや将棋のように非常にタイトであるか、逆に、雲の形を見て遊ぶ子どものように非常にルーズであるか(勝手に自分でつくっているか)、そのどちらかの状態が保証されているということだ。カイヨワは示唆に富む独得の発想をする人なのだが、システム思考という面ではいささか放埒すぎるところがあった。

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遊びこそは編集の先生である