私たちは、そのような情報連鎖の感覚をつかって、自分のアタマの中と相手の言葉とのアクロバティックな連携をなんなく編集しながら、「リンゴ」がいつしか「桃太郎」になるというこの顛末を、連想ゲームとしてたのしんでいる。

 私が注目したいのは、その奇妙な「作用」である。そして、この情報連鎖の感覚をいささか自覚的に再活用することが、これからすこしずつ説明する〈編集技術〉というものになっていく。

 そうはいっても、とくに難しい技術があるわけではない。情報連鎖の活用など、料理人やお母さんはもとより、誰にでもそなわっている編集技術である。それには、いま一度、「遊び」に注目してみることだ。遊びができれば編集はできる。

 遊びの本質は編集にある。

 とくに子どもたちは編集の天才であって、たちまち連想によって遊びを発見する。手元に遊び道具が何もなくとも、二人で土手に寝転びながら雲の形を何かに見立て、次々に「何に見えるか」を言いあう。手近にあるものが自転車の部品や布の切れっ端であっても、子どもたちはこれをつかって遊びはじめることができる。それだけで遊びであり、編集なのだ。

 遊びの本質が編集にあるということは、逆に、編集の本質も遊びにあるということである。二十世紀フランスきっての遊学者であったロジェ・カイヨワは、遊びには四つの種類があると考えた。アゴーン、アレア、ミミクリー、イリンクスである。

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自己編集性をもった遊びとは