わだ・なつき/2003年、大阪府生まれ。中学2年生で卓球を始め、23年にチェコ・台北・台中パラオープンで3大会連続優勝。同年10月のアジアパラ競技大会も制覇し、パリ大会出場権を獲得。内田洋行所属(撮影/越智貴雄)
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 AERAの連載「2024パリへの道」では、今夏開催されるパリ五輪・パラリンピックでの活躍が期待される各競技のアスリートが登場。これまでの競技人生や、パリ大会へ向けた思いを語ります。

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 卓球をやめたいと思ったことがある。2023年6月と7月に国際大会で3大会連続優勝した後のことだ。

「ずっと結果が良すぎて、パリに行くために『世界ランキングを下げてはいけない』『勝たないといけない』というプレッシャーがすごかった」

 重圧に押しつぶされそうな姿を見て、母は「卓球をやめてもいいよ」と言ったという。

 それには理由があった。娘に知的障害があるのがわかったのは中学2年生の時。その時に決めたことがあった。

「この子には、人より優れているところがたくさんある。だから、できないところは底上げをして、あとは良い部分を伸ばしたらいいんだと思いました」

 卓球は「できること」のひとつで、最初に才能を見いだしたのも母だった。だからこそ、その卓球が重荷になるなら、やめてもいいと思った。

 周囲からの期待とプレッシャー。卓球を続けることの“つらさ”は、これまで経験したことのないものだった。とりあえず、期間限定で卓球に再び取り組むことを決意したものの、同年8月の韓国パラオープンでは決勝で敗れ、同月のタイパラオープンではメダルにも届かずに惨敗した。しかし、これで火がついた。

「負けた後、他の選手の応援をするのが好きじゃないんです(笑)。やっぱり、自分が勝ち残って最後まで自分が応援されたいし、応援する時も自分が勝ってから応援したい」

 和田のコーチを務める永富聖香氏は、そんな「芯の強さ」を高く評価している。

「高校時代に初めてレッスンをした時、グリップを握りかえるクセがあって『それでは勝てないよ』と、かなり厳しく言ったんです。その日も泣きながら練習をしていて、私は『二度と来ないだろうな』と思ったんです」

 ところが、和田はわずか2週間後に再びやってきた。その時は、グリップを握り直すクセが消えていた。

「トップクラスの選手でも、握り方を変えるのは大変なこと。それを2週間で直したので、私の方がびっくりした」

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卓球以外にも新しい挑戦を始めた