哲学者の内田樹さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、批評的視点からアプローチします。
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兵庫県の北にある小さな大学に夏休みの集中講義で来ている。ここはクリエーター志望の学生が多い。演劇や文学や映像など分野は多様だが、「作品を創造する」ということにあこがれを感じている若者たちである。彼らに向かって「世の中そんなに甘くないぞ。よほど才能がなければ、クリエーターで食えるなんて思うなよ」と世間知を告げることは簡単である。でも、教師の仕事は子どもたちの願望を下方修正することではない。その潜在的な才能の開花を、とりこぼしなく支援することである。
私は長く教師をしてきて確信を込めて言えるけれど、「目の前にいるすべての子どもたちは天才だ」と思って教える方が、精密な能力査定に基づいて「わかりそうなこと」だけ選択して教えるよりもずっと楽しい。子どもたちはどうかわからないけれど、教える私は楽しい。教える私が楽しんでいることは子どもたちにも伝わる。教師が苦役に耐えているのか、愉快に過ごしているのかは子どもにもわかる。そして、「あなたと過ごす時間は楽しい」と告げるのは何よりも相手に対する「敬意」の表現である。
誤解している人が多いが、「愛情は伝わらないことがあるが、敬意は伝わる」。どれほど深く愛していても相手に気持ちが伝わらないということはよくあるし、ストーカー的な人物に愛されたりするとひどく不愉快な思いをすることもある。でも、敬意が伝わらないということはない。敬意を示されて不愉快になるということもない。なにしろ敬意を示すというのは「適切な距離を取る」ということなのだから。
学生に対して私が敬意を示すのは、彼らがいつどんなふうに「化ける」のか予見できないからだ。彼らの才能が開花する時に、前をふさいだり、上からのしかかったりしないように「適切な距離をとる」ことは教師のたいせつな仕事である。
敬意はどれほど意思疎通の困難な相手でも必ず伝わる。愛情や理解は伝わらなくても敬意は伝わる。「鬼神を敬して之を遠ざく」と『論語』にもある。相手が人間の言葉の通じない鬼神であっても、敬意は伝わり、鬼神をして適切な距離を取らしむるのである。
※AERA 2024年8月5日号