威海衛の戦い戦闘概要図
陸軍の第2軍が山東半島東端の栄城湾から威海衛を目指した一方、連合艦隊も陸軍の動きに合わせて威海衛の砲台襲撃を開始し、無力化に成功する。湾内では水雷艇隊の夜襲などで攻撃し、北洋艦隊を座礁・撃沈させた。
参考図書/『近代日本戦争史 第1編 日清・日露戦争』(同台経済懇話会) 地図制作/アトリエ・プラン

 開戦後、日本政府は外国の新聞や外国人記者を買収・厚遇するなどして、日本に有利な戦争報道になるよう情報操作をしてきた。今回も買収で事態をもみけそうとしたが、容易に火は消えなかった。

 明治二十七年十月、イギリスが講和の仲介を申し出てきた。陸奥外相は固辞したが、翌十一月になると今度はアメリカのダン公使が「戦いを続けると、中国に利権を有する列国が日本に不利な要求を突きつけ、戦争を強制的に終了させるかもしれない」と述べ、仲介を打診してきた。陸奥はダンの申し出を謝絶したが、このおり「アメリカに仲介を御願いすると、他国の介入のおそれがあるので断らざるを得ません。けれど将来、第三国が戦争に干渉してきたら、ぜひご厚誼に頼ろうと考えています」と漏らした。

 その後、清がアメリカを通じて強く講和を求めてきたので、日本はこれを受け入れた。かくして明治二十八年一月、清の外交官二人が広島に到着。二月一日から全権の伊藤博文と陸奥との間で交渉がはじまった。しかし、これを知ると、国民の多くは「講和は時期尚早」と激昂した。世論を無視できないと判断した政府は、清の全権委任状の不備を指摘して話し合いを拒否、交渉をやめてしまった。

 当初、国民は積極的に戦争を支持していたわけではなかったが、日本が連戦連勝すると、急速に戦争熱が高まっていった。新聞が戦争記事で国民の熱狂をあおり、日本の勝利や英雄を描いた戦記物も続々と発売。芝居や歌舞伎、講談などでも盛んに戦争をテーマにした題材が取りあげられ、各地で戦利品が公開された。徴兵された若者たちが戦場へ向かう際には、青年会や尚武会、小学生らが大々的に彼らを送り出した。兵士たちは戦地からは勇ましい軍事郵便を郷里に届け、各地で大規模な祝勝会が開かれ、戦争協力のための献金も行われた。こうして、社会全体に戦争熱が行き渡っていった。

 欧米列国は、日本が清との交渉を決裂させたのは、さらに過大な要求を突きつけるためだと疑い、数カ国が在日公使を通じて日本に「平和を回復すべきだ」と忠告してきた。

 陸奥は列国の疑いを解くため、「日本国政府は、清国にて軍費賠償および朝鮮国独立を確認する外に、戦争の結果として土地を割譲し、および将来の交際を律するため、確然たる条約を締結すること」を考えていると、初めて日本の講和条件を公表した。が、これにより、領土の割譲を望んでいることが明らかになった。いずれにせよ、国際社会の圧力により、日本も戦争の終結に動かなくてはならなくなった。

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