威海衛へ雪中行軍を行う日本軍/厳寒の地の行軍は過酷なものだった。従軍軍楽隊員だった永井建子は作詞・作曲した「雪の進軍」の歌詞に、
「堪へ切きれない 寒さの焚火」「背の温みで雪融けかゝる」とうたっている。(国立国会図書館所蔵)
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 明治維新から30年足らずだった日本は、当時、侮れない存在として「眠れる獅子」と称されていた清とどのように戦ったのか。誰も予想しえなかった日本勝利で終わった日清戦争を、テレビでもおなじみの河合敦さんが8回にわたって解説する。第7回は「威海衛の戦い1895年1月下旬〜2月12日」。

【写真】最初は戦争を支持していなかった日本国民の間に急速に戦争熱が高まっていった理由とは?

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威海衛の戦い1895年1月下旬〜2月12日

 大本営は旅順を落とした第2軍に威海衛の攻略を命じ、明治二十八年(1895)一月下旬から攻撃が始まった。威海衛も要塞化していたが、背後から陸軍が激しく攻撃。二月になると連合艦隊が海側から港を砲撃、水雷艇が湾内に侵入し、ついに定遠・鎮遠を沈没させた。ここにおいて戦意を喪失した清兵が丁じょ昌(じょはサンズイに女)提督に降伏するよう求めたが、彼はそれを拒否して、服毒自殺。高等指揮官数名も自殺した後、清軍は正式に降伏した。

 同時期、大本営は連合艦隊に澎湖諸島の占領を命じた。隣接する台湾を講和条約で割譲させるための布石だった。ともあれ、威海衛の陥落で北洋艦隊は壊滅、日本は完全に制海権を握ったのである。

 日本政府は、日清戦争を文明の戦争と位置づけていた。捕虜の扱いなど国際法を遵守し、いかに文明国であるかを欧米に示し、不平等条約の撤廃を期待した。陸奥外相も「この戦争は西洋的新文明と東洋的旧文明の衝突で、日本にとっては文明国に加入する試験」と述べている。

 そんな日本にとって極めて都合の悪いことが喧伝されてしまった。旅順口の戦いで日本兵が民間人を虐殺したことが、従軍外国人記者によって報道され、国際的に非難を浴びたのである。

 旅順要塞を落とした第2軍は、市街地で敵の掃討戦を行ったが、この際、降伏兵だけでなく住人も殺戮した。数は諸説あってわからないが、こうした行為の背景には清国民に対する激しい憎悪があった。清兵は戦死した日本兵の手足を切り落としたり、腹を十文字に割いて砂を詰めたり、首をさらしたりしたのだ。ただ、上官がいさめれば日本兵は殺戮行為を止めたのだろうが、山地元治中将ら高等司令官も虐殺を公認したようだ。

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