明仁皇太子が英国に到着した日、英大衆紙デイリー・エクスプレスは、「68%の読者が日本の皇太子を戴冠式に出席させることに反対した」と報じた。
宿泊先だったケンブリッジは、ビルマ(ミャンマー)で日本軍の捕虜となった人が多く暮らす街だ。日本の皇太子の訪問に、「アンチ・アキヒト」という不穏な空気が高まった。そのため、急きょ訪問した大学の学長宅に滞在したほどであった。また、イングランド北部のニューカッスルでは、元捕虜団体の抗議で明仁皇太子の訪問は中止に追い込まれた。
しかし、26歳の若き女王と英王室は明仁皇太子を温かく歓待した。ダービー競馬を明仁皇太子が観戦していることを知った女王は、自身のスタンドに招いたという。
明仁皇太子が美智子さまと結婚したときには、女王からお祝いに銀製の茶器一式が贈られた。
ロンドン五輪などでユーモアを見せた女王。「おてんば」な素顔は、昔からであったようだ。
76年に明仁皇太子と美智子さまが訪英したときのことだ。
英国のロイヤル・アスコット競馬を観戦中に、女王が明仁皇太子のひざの上に置かれたレースカードに突然、手を伸ばした。
びっくり仰天する明仁皇太子を尻目に、女王は自分の競馬予想を書き込みだした。母の皇太后が、女王のいたずらをたしなめるというオマケもついた。
他方、英国やオランダでは元捕虜団体が日本に対して補償と謝罪を求めており、戦争が残した溝は埋まらないままだった。
イギリス政治外交史に詳しい君塚直隆・関東学院大学国際文化学部教授は、こう当時を振り返る。
「89年の昭和天皇の大喪の礼で、オランダのベアトリックス女王は、国内世論を鑑みて王族を列席させなかった。英国も国内世論の厳しさは同じでしたが、夫のエディンバラ公フィリップ殿下を列席させる配慮を見せました。この『恩』があるわけです。本来ならば、上皇ご夫妻が自らお別れをなさりたいと思います。しかし、ご年齢を考えると難しい。エリザベス女王の国葬には、異例であっても天皇陛下が列席なさるのが相応しいと思います」
大衆紙は「ジャップ」と批判するなか…
平成の代替わりを経て明仁天皇となっても英国の日本への批判は止まなかった。むしろ戦後50年の節目である95年ごろから、その声はさらに強まった。
明仁天皇が「天皇」として訪英への訪問が実現したのは、平成が始まって10年目のことだった。
この時式部官長だった苅田吉夫さんは、かつて記者の取材にこう振り返っている。