ニール・ヤングとエリック・クラプトン。個人的にもさまざまな形で影響を与えられてきた二人のアーティスト(ともに1945年生まれ)の足跡を、ほぼアルバム制作順に追った計139本のコラムにつづいて、このWEB連載では、これから約20回にわたって、60年代初頭から70年代終盤にかけてカリフォルニア州ロサンゼルス周辺から届けられた、広い意味でのロックの名盤や名曲を紹介していく予定だ。
ただし、これは次回、あらためて詳しく書くことだが、ロサンゼルスという地域を説明するのは難しい。僕は、仕事の関係もあって、おそらく30回ほどかの地を訪れていて、基本的にはいつも自分でハンドルを握っているものの、とはいえ毎回ほんの数日のこと。まだまだ理解できていないこと、わからないことがたくさんある。それでも、太平洋に面したサンタモニカから砂漠地帯のジョシュアトゥリー国立公園まで、あるいはカリフォルニア州西海岸南端のサンディエゴからサンフランシスコまで、いくつもの道を走り、それぞれの土地の空気をそれなりに感じてとってきた者として、「ロサンゼルスのロック」を、時代や社会の変化を追う形で紹介していければと思う。
アメリカ合衆国の太平洋沿いには、北から、ワシントン、オレゴン、カリフォルニアの3州が連なっている。距離にするとその大半はカリフォルニアで、メキシコとの国境とオレゴンとの州境までは約800キロ。1日で走りきるのは難しい距離だ。ロサンゼルスやハリウッド、サンタモニカなどから成るロサンゼルス群はその巨大な州の南部に位置している。
サザン・カリフォルニアと呼ばれるこの地域でも、いうまでもなくかつては、のちにネイティヴ・アメリカンと総称されるようになってしまう人たちが暮らし、独自の文化を守っていたわけだが、スペインとメキシコの統治時代、米墨戦争をへて、19世紀半ばにアメリカ合衆国の一部となった。そして、原油などの資源にも恵まれたこの土地は、温暖な気候もあって、多くの人たちを引き寄せたのだった。1920年代後半にはシカゴとロサンゼルスを結ぶ大動脈ルート66が完成している。
その後、ハリウッドが映画産業の中心地となっていく過程で、ロサンゼルスには優れた演奏家が集まっていった。また、「あのカリフォルニア」という歌詞が印象的なロバート・ジョンソンの《スウィート・ホーム・シカゴ》がヒントになるかもしれないが、南部諸州ほど人種差別の激しくなかったカリフォルニアには、主にジャズ系のミュージシャンたちが新天地を求めて向かっていったようだ。
そして、大きな戦争があり、超大国としての繁栄があり、ちょうど60年代を迎えたころ、ビーチ・ボーイズやジャン&ディーンなど、ロサンゼルス的な感性でロックンロールのエッセンスを取り込んだグループが登場し、新しい時代への扉を開いている。サーフ・ロックなどとも呼ばれた一連のイノセントなヒット曲と、それらを飾ったジャケットのイメージが「ロサンゼルスのロック」のイメージを決定づけ、日本ではそれが70年代のいわゆる「西海岸ブーム」へとつながっていくわけだが、その時点でもう、ロサンゼルスのロックははるか先に進んでいた。ヒスパニックやアフリカ系の人たちに囲まれてダウンタウンを歩くジャクソン・ブラウンの姿をとらえた『ザ・プリテンダー』(76年)のジャケット写真は、そういった変化を物語るものの一つといえるだろう。同年発表のイーグルス『ホテル・カリフォルニア』もそうだ。この連載では、そういった視点を大切にしながら、ロサンゼルスのロックを僕なりに紹介していこうというわけである。
最後に一つ。残念なことに日本のメディアでは「ロス」という表記が定着してしまっているが、LosはTheに相当する冠詞であり、まったく意味をなさない。アメリカを旅した若者が無邪気に「アイ・ラヴ・ロス!」などと叫んだりすることがないよう、そういう面でも一石を投じられれば、と思っている。 [次回1/13(水)更新予定]