『源氏物語』五十四帖のうち、最後の十帖の舞台となった宇治の地に立つ紫式部像(京都府宇治市)/撮影 かみゆ歴史編集部

 後宮の女性たちは、優れた日記文学も残している。

 夫である藤原兼家(「光る君へ」では段田康則)の浮気に悩まされ、その苦悩や兼家への愛憎、息子・道綱の成長などを『蜻蛉日記』に綴ったのは、藤原道綱母(「光る君へ」では財前直見)。彼女は受領階級の家に生まれ、藤原兼家に強引に求婚されて結婚、道綱(道長の異母兄、上地雄輔)を生んだ。道綱にも文才があり、『後拾遺(ごしゅうい)和歌集』に歌が載っている。

『更級日記』は、上総国(千葉県)の国司の娘だった菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)の手になる。菅原孝標女が『源氏物語』に憧れ夢を持った少女時代から、夫の急死に絶望し、仏に帰依する晩年までの人生を回想する内容で、彼女はほかにも、物語『夜半(よわ)の寝覚め』などの作者と考えられている。

 そして、平安時代が生んだ傑作で、「世界最古の長編小説」と称されるのが紫式部の『源氏物語』。勝気一辺倒の清少納言に対し、紫式部は、温厚で謙遜深いが、内面に高いプライドを秘めていたとされる。学者・藤原為時の娘で、夫の藤原宣孝と死別後に『源氏物語』の執筆を始め、その評判により彰子に仕えたと考えられている。

 彰子の出産の様子、藤原道長・実資ら貴族との交流などの宮廷生活を記した『紫式部日記』も、第一級の文学作品として知られている。特に有名なのが、清少納言への批評だ。「高慢で利口ぶっている」「漢学の才をひけらかしている」と激しく罵倒しているためライバル関係にあったと思われがちだが、紫式部の出仕は清少納言が宮廷を去ったあとで、二人が顔を合わせた可能性は低いとされている。

 女流文学の隆盛は、外戚の地位をめぐる争いと無関係ではなかった。天皇には複数の后妃が入内するのが通例であった。権力者たちは自身の娘に天皇の愛情が向かうよう、有能な女房を多数仕えさせてサロンの魅力を高めたため、そこから多くの文学作品が生まれることとなったのである。

(構成 生活・文化編集部 上原千穂 永井優希)

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