インティファーダが続いていた90年、イラクのフセイン大統領はクウェートを占領。国連安保理から撤退を求められると、イスラエルのパレスチナ撤退を条件とする「パレスチナ・リンケージ」を持ち出した。翌91年の湾岸戦争でイスラエルに弾道ミサイルを撃ち込んだフセイン大統領は、アラブ世界の喝采を受けた。
かつてパレスチナ解放は「アラブの大義」だった。パレスチナ人が単独でイスラエルに対抗するようになると、「大義」を失ったアラブ諸国の「統治の正統性」が揺らぎ、フセイン大統領のように既存の中東秩序に挑戦する指導者が台頭する契機となる。
00年から第2次インティファーダが始まった。翌01年の9月、米同時多発テロが発生。事件の首謀者とされたイスラム過激派組織アルカイダを率いたビンラディンは翌02年、「アメリカ人への手紙」と呼ばれる文書を発表し、米国に敵対する理由の第1にパレスチナ問題を挙げた。ビンラディンの主張はこうだ。
「ユダヤ人は米国の支援によって50年にわたってパレスチナを占領し、破壊と荒廃をもたらしている。(占領の)犯罪に加担する米国は代償を払うべきである」
ビンラディンもまたパレスチナ人の戦いに乗じて、米国に挑戦したのだった。
民主化運動「アラブの春」指導者への不満くすぶる
中東では、ほぼ10年ごとに戦争やテロや革命が起きている。11年には、民主化運動「アラブの春」が本格化。強権体制の打倒を叫び、カイロのタハリール広場を埋めた若者たちのリーダーの一人は、その2年前の08年12月、イスラエルによる最初のガザ攻撃の時に、地下トンネルでガザに潜入。取材に対し、支援活動をしてエジプト警察に拘束された経験を語ってくれた。アラブの指導者たちがパレスチナ人のために動かなかったことに、アラブ諸国の若者たちがいたたまれない気持ちでいたことを知った。