さて、『源氏物語』が書かれる直前、時の一条(いちじょう)天皇(九八〇~一〇一一)には心から愛する中宮定子(ちゅうぐうていし)がいた。『枕草子』の作者・清少納言が仕えた、明るく知的な中宮である。だがその家は没落していた。そこに入内してきたのが、時の最高権力者・藤原道長の娘で、やがては紫式部が仕えることになる彰子(しょうし)である。定子は二十三歳、天皇は二十歳、そして彰子自身はまだ十二歳。年の差もあって気が進まない天皇だが、道長や貴族たちの手前、定子よりも彰子を重く扱わなくてはならない。その苦しい胸の内は貴族たちの日記や『栄華物語』『枕草子』などから知ることができる。結局定子は翌年、皇子を遺して亡くなった。辞世は「知る人もなき別れ路に今はとて心細くも急ぎたつかな(知る人もいない世界への旅立ち。この世と別れて今はもう、心細いけれど急いで行かなくてはなりません)」。一条天皇は悲しみにくれた。

『源氏物語』の執筆が開始されたのは、この出来事のわずか数年後だ。いうまでもなく、桐壺帝は一条天皇に、桐壺更衣は定子に酷似している。更衣の辞世「限りとて別るる路の悲しきにほしきは命なりけり(もうおしまい。悲しいけれど、この世と別れて旅立たなくてはなりません。私が行きたいのはこんな死出の道ではない、生きたいのは命なのに)」は定子の辞世と言葉が通う。また遺児の光源氏を天皇が溺愛し後継にしたいと願ったことも、定子の遺した息子・敦康親王(あつやすしんのう)に対して一条天皇が抱いていた願いと同じだ。

 紫式部は面白さを狙っただけではない。一条天皇の苦しみは、一人の男性として抱く愛情と、天皇として守るべき立場とに挟まれての人間的葛藤だった。紫式部の描く桐壺帝も、実に人間的だ。人間を見据え、天皇という存在までもリアルに描く。それが『源氏物語』だといえるだろう。

 こうした『源氏物語』は、定子を悼み天皇の心を癒やす力をも持っていた。当の一条天皇がやがて『源氏物語』の愛読者となったこと、これは紫式部自身が『紫式部日記』に記している。

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