「あの能登が」という心が伝わる
この1月5日は、編集局長の坂野洋一にとっても特別な日だった。あるメールが北國新聞社宛に届いていた。滋賀県在住の長田忠(おさだただし)という男性からだった。長田は、ネットのニュースを見ているうちに、心に留まる記事の出所がいずれも北國新聞ということに気がついた。
長田は製薬会社の営業として奥能登をまわった経験があった。「能登はやさしや土までも」という能登の人々の気性をよく知っていた。だから余計に自分に引きつけた記者たちの記事に感動した。
〈全国紙やテレビは震災地の震災状況を伝えますが、北國新聞の記者さんたちから伝わるのは、あの町や人がこんなになってしまったということです。
「あの能登が」という心を記者さんたちがお持ちだからだと思います〉
坂野は夕刊降版後の朝刊のための紙面会議で居並ぶ部長たちにこのメールを読み上げた。
不覚にも、読んでいる途中で声が震え、涙がこぼれてしまった。
みな、体力の限界まで働き現場は殺気だっていたが、このときばかりは、温かいものが皆の間に流れた。
前日の1月4日、新体制の選出が議題となっている取締役会、臨時株主総会が開かれていた。坂野は取締役でもある。非常時ではあったが、坂野によれば、粛々と議事進行し、90年代から2023年まで続いた飛田秀一以降の新体制が北國新聞社に正式に誕生していた。
加賀一向一揆までさかのぼりながら
昨年春に私は北國新聞社の編集委員竹森和生と、私の母方のルーツを訪ねる旅を石川にしていた。その道すがら、竹森らがとりくんでいる連載の企画の話を興味深く聞いた。
北國新聞は、石川の歴史をさまざまな角度でこれまでも掘り下げてきたが、こんどの連載では加賀百万石のその前の時代をやるのだと竹森は言った。
現在の石川の文化は、茶にしても和菓子にしても、前田利家以降の加賀藩の歴史を色濃く受け継いでいる。その加賀藩については、これまで散々やってきた。そこで当時会長だった飛田がふともらしたのは、「前田以前の歴史をやったらどうだ?」という言葉だったという。
加賀一向一揆である。
加賀一向一揆は柴田勝家の軍に滅ぼされるまで100年続いた。が、いかんせん敗者の歴史は残らない、史料が少なくて苦労している、と竹森はこぼしていた。
が、昨年暮れに、竹森が送ってきてくれた130回の連載の切り抜きは、めっぽう面白かった。タイトルは、実悟という本願寺第8世法主蓮如の10男が書き残した史料に、「百姓ノ持タル国ノヤウニナリ行キ候コトニテ候」とあることから、「『百姓ノ持タル国』の百年」となっていた。