勉強しない者も受験はする。九九ができない高校生がいるのは、そういう社会だ。近代以降の日本では、学歴は就職の大きな要件であり、ライフ・コースの大きな節目となってきた。
 身分制度が厳しかった時代には、受験はなかった。受験は出自とは無関係に競争できるチャンスだった。著者は受験が一般化したのを明治30年代半ばとし、「受験の時代」は昭和40年頃まで続いたとする。それは「平等化」が進められた時代といえるだろう。
 明治初期には四民平等が宣せられ、勉強立身熱が生まれたが、まだ分際意識が強く、目指すのは士族や上層農商人の子弟に限られていた。学校制度が整い、それが富貴栄達への順路だと認識されることで、進学願望は広まる。受験戦争が過酷化した一因は、増加する受験者の中身が、学問への関心ではなく、出世のために高学歴を目指す人々だったためだろう。
 本書には目からウロコの指摘も多い。例えば戦前は「苦学」する人が多くいたが、試験での資格取得を目指す中学講義録などの通信教育は、実際には、学業をあきらめて今の仕事や境遇を受け入れるためのクール・アウト装置として機能していたとする。「がんばった」という挫折体験で自分を納得させ、大人になるのだ。
 また教養主義は勤勉に努力する人々に「育ち」の違いを意識させると指摘し、教養主義に対抗する修養主義(心身の鍛錬と人格の向上)の台頭につながったとする。この先には反知性主義的な精神論が来るだろう。
「受験のポストモダン」とされる昭和後期、受験は予備校などの受験産業によってゲーム化された。さらに現代では、人柄重視という名のコネ疑惑や、帰国子女枠など家庭環境の影響力増大が、不公平感を生んでいる。
「ゆとり教育」以降の現代では、成績上位層の加熱とそれ以外の層の冷却の二分化が進んでいる。今に国民皆受験競争時代は、憧れの対象になるのかもしれない。

週刊朝日 2015年10月16日号