ところが、今回の『コード・ブレーカー』の著者、ウォルター・アイザックソンは元タイム誌の編集長、フェン・チャンとダウドナのみならず、その周辺の人々にも取材をくりかえし、この先陣争いで何があったかを明らかにしている。
その中には、ダウドナやフェン・チャンそれぞれにとって容赦のない情報も含まれている。
たとえば、ジェニファー・ダウドナが、先陣争いで自分の権威を最大限利用したこと。
ダウドナの発見は、実はほぼ同着でリトアニアの科学者も到達していた。このリトアニアの科学者は、米国科学アカデミーが発行するPNASへ論文を送り、それが掲載されるようその要旨をその分野にもっとも精通した会員に送った。それがダウドナだった。
その論文要旨を見たダウドナは、サイエンス誌の編集者に彼女の論文の掲載を急がせた。
このことを周辺の取材で固めたアイザックソンは、ダウドナ自身に直接確認している。
<彼女は、その通りだとあっさり認め、自分はサイエンス誌の編集者に、競合誌に投稿された論文があることを伝え、査読を急ぐよう求めた、と言った。「何か問題でも?」>
チャンについても、特許申請にあたって、協力者であるルチアーノ・マラフィーニの名前を主な出願書類から一方的に削除していたことを、アイザックソンは明らかにしている。
いずれにしても、大事なのは、何が事実かということを、藪の中のそれぞれの当事者たちに確認し、そこで得られた結論を忖度なく書いていることだ。
これこそが、第三者のノンフィクション作家の書くノンフィクションの醍醐味だろう。
当事者の手記では到達しえない全体像を把握することができる。
昨年9月に、『孤独のグルメ』の原作者の久住昌之さんが、インタビュー依頼について「報酬と著者校正」なしは断っている、<新聞社の態度は、時代錯誤で非常識>とツイートして話題になったことがあった。
私が唖然としたのは、一般の人はともかく、当の新聞記者や元新聞記者たちまでもが、取材の際に謝礼を払わなければ失礼だの、原稿を事前に見せるのは当然だのと、SNSで発言していたことだった。