「生きること」を求めることは罪なのか?

 人間として生きたい、人間であり続けたい、と願い続ける竈門兄妹の心は美しい。罪のない人を傷つけてまで、生きていてはいけないという彼らの決意は重い。では、妓夫太郎や堕姫のように「生」に執着することは醜いことなのか。「生きたい」という気持ちは誰しもが持つ希望であり、大切な人に「生きていてほしい」という思いも持っていて良いはずだ。

<鬼になったことに後悔はねぇ 俺は何度生まれ変わっても必ず鬼になる>(妓夫太郎/11巻・第96話「何度生まれ変わっても<前編>」)

 妓夫太郎は妹が鬼になっても、妹をかばいながら戦い続けた。「何とかしてよォ お兄ちゃあん!! 死にたくないよォ」こんなふうに泣いて頼む妹の姿を見て、助けてやりたいと思った妓夫太郎を誰が「悪」だと責められるだろうか。

真の兄妹愛

 鬼は「生」に執着する。「化け物」へと姿を変えることを代償に、“ほぼ永遠”の命を手に入れる。しかし、妓夫太郎の真の願いはそんなことではなかった。妓夫太郎は「俺の唯一の心残りはお前だったなあ」と、妹の梅(堕姫)に人間の女の子の「普通の幸せ」を与えてやりたいと思っていた。

 堕姫にとって妓夫太郎は、誰よりも優しい兄だ。梅の最後の願いを聞けば、そのことがはっきりとわかる。

「何回生まれ変わっても アタシはお兄ちゃんの妹になる絶対に!!」

 鬼になってもなお愛してくれる兄の隣だけが、誰も愛してくれる人がいなかった堕姫の唯一の「生きる場所」だった。たとえ間違えた道を選んだのだとしても、彼らの兄妹愛は本物だった。

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植朗子

植朗子

伝承文学研究者。神戸大学国際文化学研究推進インスティテュート学術研究員。1977年和歌山県生まれ。神戸大学大学院国際文化学研究科博士課程修了。博士(学術)。著書に『鬼滅夜話』(扶桑社)、『キャラクターたちの運命論』(平凡社新書)、共著に『はじまりが見える世界の神話』(創元社)など。

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