江戸時代、天皇は儀式を司る「儀王」だった。天皇は御所のなかで、国と国民の平和を神に祈る儀式中心の生活をしていた。
「天皇が祈れば日本は安泰であり続けると信じられていた」
かつて宮中祭祀を担当する掌典職を経験した人物は、そう語る。
明治憲法が発布されると、祈りと儀式に加え、憲法上も天皇は国を統治する役割を担うようになる。
災害が起こると、明治天皇は勅使を派遣して情報収集に努めた。1891年(明治24年)に中部地方を襲った濃尾地震では、天皇は皇族の小松宮を被災地に派遣。1896年(明治29年)の明治三陸地震でも勅使を送り、御手許(おてもと)金を下賜している。国民のことを考え、見守るという意味だった。
天皇や皇族が被災地を初めて視察したのは、1923年(大正12年)9月1日に起きた関東大震災だ。大正天皇に代わり摂政宮となっていた皇太子の裕仁親王と秩父宮が市中を視察した。
震災が起きた時、日光の田母沢御用邸にいた大正天皇と貞明皇后だが、貞明皇后は9月末には東京に戻る。上野駅に着いたその足で、上野公園内にいた被災者を見舞った。
避難所となった博物館内で貞明皇后は、姉に看護されながら薄暗く冷たい床に身を横たえる男の子に心を痛め、歌を残している。
<石つくり小(お)くらきいへのつめたさも姉のみとりにしはししのかん>
貞明皇后は翌日以降も慶応病院や伝染病研究所などを訪ねた。3万8千人が焼死した本所区(現・墨田区)の被服廠では、長い黙祷を捧げたという。
<川池等に身を投けて、よわきはそのまゝとなりてうせたるよしきゝて>
<みのひゆることも忘れて池川にとひ入るひとのうへそかなしき>
貞明皇后がこのとき詠んだ和歌は、150を超えたという。