道隆は右衛門府の陣まで我慢したが、ついに内裏の西側にあたる宴の松原までが限界だった。文字通り、疑心が暗鬼を生み出したためか、堪え切れず引き返したとある。宴の松原は宜秋門の外にあり、以前に若い女性が鬼に食われたとの風説があった場所だった(『今昔物語』巻二十七─八)。
次兄の道兼はといえば、彼は紫宸殿と仁寿殿の間までは震えつつ赴くが、途中で物怪とおぼしき巨人の影に出くわし、これまた引き返すことになったという。
そして道長である。彼は指示された承明門から出て、大極殿へと赴き、「いとさりげなく」戻ったという。そればかりか高御座の南側の柱の下部を削り取り、証拠として持参するという念のいれようだった。
道長の人となりを、うかがうことができるエピソードといえそうだ。『大鏡』が伝える道長にまつわる逸話は、ある程度の史実を下敷きとしたものだろう。豪胆云々でいえば、「貴族道」の模範というべき人物に藤原公任がいた。のちに道長政権下で四納言の一人に数えられる人物で、道長の父兼家なども出来の良いこの人物には、一目置いていた。兼家はわが息子たち三人に対し、その公任の優秀さを大いに褒めそやしたことがあった。
「いかでかかからむ。うらやましくもあるかな。わが子どもの、影だに踏むべくもあらぬこそ口惜しけれ」(どうしてあのような諸芸に達しているのか。うらやましい。わが子どもたちが公任殿の影法師さえ踏めそうもないのは残念だ)〈道長伝〉。これに対し、若き道長は、身を縮めている兄たちとは対照的に、“影は踏まずに面を踏んでやる”と高言したという。