道隆は右衛門府の陣まで我慢したが、ついに内裏の西側にあたる宴の松原までが限界だった。文字通り、疑心が暗鬼を生み出したためか、堪え切れず引き返したとある。宴の松原は宜秋門の外にあり、以前に若い女性が鬼に食われたとの風説があった場所だった(『今昔物語』巻二十七─八)。

 次兄の道兼はといえば、彼は紫宸殿と仁寿殿の間までは震えつつ赴くが、途中で物怪とおぼしき巨人の影に出くわし、これまた引き返すことになったという。

 そして道長である。彼は指示された承明門から出て、大極殿へと赴き、「いとさりげなく」戻ったという。そればかりか高御座の南側の柱の下部を削り取り、証拠として持参するという念のいれようだった。

 道長の人となりを、うかがうことができるエピソードといえそうだ。『大鏡』が伝える道長にまつわる逸話は、ある程度の史実を下敷きとしたものだろう。豪胆云々でいえば、「貴族道」の模範というべき人物に藤原公任がいた。のちに道長政権下で四納言の一人に数えられる人物で、道長の父兼家なども出来の良いこの人物には、一目置いていた。兼家はわが息子たち三人に対し、その公任の優秀さを大いに褒めそやしたことがあった。

「いかでかかからむ。うらやましくもあるかな。わが子どもの、影だに踏むべくもあらぬこそ口惜しけれ」(どうしてあのような諸芸に達しているのか。うらやましい。わが子どもたちが公任殿の影法師さえ踏めそうもないのは残念だ)〈道長伝〉。これに対し、若き道長は、身を縮めている兄たちとは対照的に、“影は踏まずに面を踏んでやる”と高言したという。

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関幸彦

関幸彦

●関幸彦(せき・ゆきひこ) 日本中世史の歴史学者。1952年生まれ。学習院大学大学院人文科学研究科史学専攻博士課程修了。学習院大学助手、文部省初等中等教育局教科書調査官、鶴見大学文学部教授を経て、2008年に日本大学文理学部史学科教授就任。23年3月に退任。近著に『その後の鎌倉 抗心の記憶』(山川出版社、2018年)、『敗者たちの中世争乱 年号から読み解く』(吉川弘文館、2020年)、『刀伊の入寇 平安時代、最大の対外危機』(中公新書、2021年)、『奥羽武士団』(吉川弘文館、2022年)などがある。

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