平泉藤原氏討滅に向けての奥州合戦(文治五〈一一八九〉年)は、反乱政権から出発した鎌倉の権力が「正当」性のみならず、「正統」性に向けた動きを顕在化させた。指摘されているように、かつての頼義、義家の前九年・後三年合戦での「源家の故実」(注4を利用した演出も、そうした側面があった。そこでは「源氏神話」の創出に繋げる頼朝なりの算段も構想されていた。謀反性を前提とした頼朝の反乱権力は、内乱の前半では「正当」性の確保に力点がおかれ、後半にはそれを磨き、「正統」性への志向を強める方向に動いたことになる。

 その仕上げが建久年間(一一九〇~一一九九)だった。内乱終息後での頼朝の官職的秩序への参入が一つ(権大納言・右近衛大将・あるいは征夷大将軍)。そして二つには、二代頼家への権力委譲への準備(建久年間の富士の巻狩でのパフォーマンス。建久六〈一一九五〉年の上洛にさいしての頼家随伴等々〈注5)に加えて、最大の眼目は、天皇との血脈の形成だった。

 頼朝の娘・大姫の後鳥羽天皇(在位:一一八三~一一九八)への入内は、結果は別にしても、正統性に向けての意向が示唆されていた。

 頼朝の権勢はその建久の間で、終焉をむかえることになるが、遺産は北条氏へと継承される。頼朝に象徴される貴種性をもたない執権・得宗北条氏は、土着の在地勢力の伸長のなかで、自己の政権への足取りを強固にした。

『太平記』(巻五)の語る時政と江島明神の約諾が伝える「三ツ鱗」説話(注6は、北条氏の権力相承を神話化させる中身であった。得宗嫡流による権力委譲の「正当」性と時政以降の血脈に頼る、京都王権からの相対的自立を表している。

 承久合戦にあって勝ちを得た関東が、後鳥羽院以下の「至尊」を配流し得た後も、北条氏は関東にあって原則「朝廷不介入」の立場を採り続け、かつ官職世界の人事においても距離を保持した。

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