「至尊」「至強」なる語句もそうだ。「至尊」を天子に、そして「至強」を実力・権力者たる覇者に見立てるものだ。福沢諭吉が『文明論之概略』(一八七五)で「至尊ノ位ト至強ノ力トヲ合シテ、人間ノ交際ヲ支配シテ」などと、表現するのがそれであった。丸山眞男はこの福沢の「至尊」「至強」論を敷衍しつつ、わが国の天皇と武家との権力の相互の関係を論じた(注2)(『丸山眞男講義録[第四冊] 日本政治思想史 1964』東京大学出版会、一九九八)。
丸山は中国皇帝がもつ「至尊」と「至強」の両要素の併有性との対比を通じ、両者の分裂、すなわち「至尊」たる天皇と、「至強」たる武家(将軍)の分離こそに、わが国の権力構成の特質を見いだそうとした。
丸山の念頭には近世における徳川権力があったはずだが、この考え方は中世に広げることも可能だろう。
いずれにしても政治権力は「正当」を獲得して以降、常に「正統」なるものへの志向を内包することになる。それは「至強」を前提とした武家にあっても、自己の正統性を血脈的な時間に落とし込み、それをある種の“神話”的要素で、加工するという流れがある。「正統」化への志向である。
「征伐」という「故実」
『読史余論』からは離れるが、前述の「正当」なり「正統」の観念について、もう少し続ける。武家政権におけるその両者の投影のされ方をさぐりたい。この点について武家政権の第一ステージともいうべき鎌倉政権に例をとると、以下のような見取り図を描くことが可能だ。鎌倉の権力はその当初は謀反の政権として出発した。この反乱により、地域権力を正当化し、それを認知させたのが、朝廷から源頼朝に下された寿永二(一一八三)年の十月宣旨(注3)である。これにより朝権の部分委譲が可能となる。それを通じて反乱政権の立場を脱却した頼朝の権力は、「朝敵」からの脱皮を実現する。かくして東国での実効支配を王朝に追認・認知させることで、その権力の正当性が確保された。その後に奥州合戦へと進む内乱は、頼朝の権力において自己の「正当」性を純化させた。