哲学者 内田樹
この記事の写真をすべて見る

 哲学者の内田樹さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、倫理的視点からアプローチします。

*  *  *

 高橋源一郎さんと2日続けて仕事でお会いした。高橋さんがホストのラジオ番組に出演して鶴見俊輔の教育論について話し、翌日は書店で私の近著『街場の成熟論』の話をした。高橋さんとお会いするのは久しぶりである。コロナ禍以前は雑誌に対談を連載していたので三月に1度ペースで会っていた。場所も時間も編集者が決めてくれるので、すっかりそれに慣れてしまって、二人で場所と時間を決めて会うという手間をかけた覚えがない。でも、そうやって「じゃあまた」と言っているうちに訃報が届いて幽明境を異にするということがここしばらく続いたので、これからはもっと頻繁(ひんぱん)に会おうねと別れ際に約束した。

 高橋さんとは同学年である。同じ時代の空気を吸ってきた「同志」である。高橋さんと話していて「それはちょっと意見が違う」と言って私から話の腰を折ったことがない。同じように高橋さんに話を遮られた記憶もない。相手が何を言っているのかよく理解できないときは黙って聴き続ける。「なるほど」と膝を打つまで聴く。理解できたから膝を打つというより、聴いているうちに「なるほど、そういう考え方もあるのか。それも悪くないな。じゃ、それ採用」となってしまうのである。たぶんお互いにそうやって、自説をより包括的なものに書き換えているのだと思う。だから、二人の話は決して「議論」にならない。どこまでも続く「おしゃべり」である。

 今回は師弟関係とは何かということが話題に上った。高橋さんは最近『論語』と『歎異抄』を現代語訳した。どちらも弟子の質問に先生が答えるという形式の本である。でも、弟子からのどんな問いにも師は「正しい答え」を与えない。弟子が「正しい答え」に居着くことを許さないのである。その作法を師もまた「師の師」から学んだのである(孔子は周公から、親鸞は法然から)。孔子の「述べて作らず」は「私は先賢の教えをそのまま伝えているだけで、私の教えのうちにオリジナルなものは何もない」という潔い断定である。先賢の知の「伝道」に徹するところに真の「創造」がある。高橋さんと僕もその逆説が身にしみる年になった。

AERA 2023年12月11日号