奥田瑛二(おくだ・えいじ)/1950年生まれ。俳優、映画監督。94年に映画「棒の哀しみ」で多くの主演男優賞を受賞した後、2001年に監督デビュー。瀬戸内寂聴さんから授かった俳号は「寂明」(撮影/門間新弥)
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 AERAで連載中の「この人のこの本」では、いま読んでおくべき一冊を取り上げ、そこに込めた思いや舞台裏を著者にインタビュー。

 俳優、映画監督でもある奥田瑛二さんの著書『よもだ俳人子規の艶』は、俳人の夏井いつきさんと正岡子規について語り尽くす。子規は、34年の生涯で約2万5千もの俳句を残したが、意外にも傾城(城も傾くほどの美しい遊女)や遊里を詠んだ句を多く残している。子規の人間臭さ、そしてシビアな世界に身を置く女性たちへの優しい眼差しが浮かび上がる。自らを“女性至上主義者”と表現する奥田さんの感性が光る。奥田さんに同書にかける思いを聞いた。

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「あなた、俳句をお詠みになったことってある?」

『よもだ俳人子規の艶』を上梓した奥田瑛二さん(73)の俳人としての第一歩は、故・瀬戸内寂聴さんのそんな一言から始まった。

 40年近く前のこと。雑誌の対談企画で、京都の瀬戸内さんの自宅を訪れたときだった。俳句に触れたのは、おそらく小学5年生が最後。内心慌てふためく奥田さんをよそに、瀬戸内さんは茶目っ気たっぷりに「一句お詠みなさい」。途方に暮れ耳を澄ませば、庭からウグイスの鳴き声が聴こえてきた。不思議と、気持ちが落ち着いていく。

「鶯の鳴けるやさしさ我に無し」

「あら、いいじゃない」という瀬戸内さんの言葉に安堵したこの日から、奥田さんの人生に「俳句」が色濃く取り込まれていく。

「俳句を詠む時間は、自分に正直になる時間」と奥田さんは言う。一日一句詠むことを課していた時期もある。取り繕うことも着飾ることもできない自分が17音のなかに宿る。

 書名にある「艶俳句」というカテゴリーを生み出したのも、奥田さんだ。

「言ってしまえば“エロ俳句”ですが、いくらなんでも、と思い“艶”と書いたら『これだ』としっくりきたんです」

 艶俳句というジャンルに足を踏み入れたのは、選者としての仕事が増え、他者が懸命に詠んだ句を選ぶことの楽しさと苦しさを味わったことがきっかけだった。

「もう一度、主観からの想像で、過去の日記のようなものを想起しながら俳句に向き合ってみようと。瀟酒なバーでお酒を飲みながら詠んだものは『芸術か猥褻か』の論争に近いようなもので、妻には見せられないものだった。でも、むちゃくちゃ楽しかった」

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