徳川家康は本当に戦のない世を目指したのか。「どうする家康」の時代考証者が「家康の野望」を分析する。AERA 2023年11月13日号より。
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慶長3(1598)年8月18日、天下人の豊臣秀吉がこの世を去った。そのとき跡取り息子の秀頼は、まだ6歳だった。
家康と秀吉の約束
亡くなる直前、秀吉は「秀頼の行く末を頼む」という内容の豊臣政権の要・五大老に対する遺言状を残していた。その五大老の筆頭という地位にいたのが徳川家康だ。遺言を託されたからには、その「約束」を守る立場にあったのは間違いない。ところが家康は17年後に大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼし、徳川家の天下である江戸時代を到来させたというのが歴史の事実である。
「家康は、なかば強引に豊臣家を滅亡に追い込んだことから『秀吉との約束を反故にした』とされ、後世に『タヌキおやじ』と呼ばれるなど腹黒さを非難する論調が根付いたと思われます」と話すのは小和田哲男氏(静岡大学名誉教授)だ。小和田氏は「どうする家康」の他、「おんな城主 直虎」「麒麟がくる」など数多くの大河ドラマで時代考証を担当している。
約束を守らなかったとされる家康は、最初から天下獲りの「野望」を抱いていたのだろうか。
「前提として、秀吉の子・秀頼が成人していたら、家康が出る幕はなかったでしょう。彼があと10年早く生まれていたら豊臣政権が続いた可能性が高かったのではないでしょうか」(小和田氏)
だが前述したように、当時の秀頼はまだ6歳。秀吉が家康ら五大老、石田三成ら五奉行による我が子の補佐を望んだのはそのためだ。五奉行の三成は、その体制を維持することで「豊臣政権を存続していける」と考えていたようだ。
信長死後の教訓
しかし家康は「天下は力のある者が回り持つべき」との論法を持ち出す。家康は天下人の後継をめぐる争いが起こることを予期し、その中心に自分がいることを自覚していたのではないか。
小和田氏はこう分析する。