「家康が、そのように考えた原点と思われるのは織田信長の政権が豊臣政権に転じたプロセスです。本能寺で死んだ信長にも次男信雄(のぶかつ)・三男信孝といった跡取り候補がいました。しかし秀吉は彼らを押しのけて長男信忠の遺児でわずか3歳の三法師(のちの織田秀信)に家督を継がせ、結局織田政権を簒奪するような格好で自分が天下人になっています」
その経緯を間近で見ていた家康。秀吉亡き後、「どうする?」と考えた結果、まず行ったのが有力諸大名との婚姻政策だった。自分の六男と伊達政宗の娘を結婚させ、異父弟の娘を養女に迎えて福島正則の養子正之に嫁がせるなどをはじめ、婚姻を次々と成立させてしまった。
家康を弾劾した三成
「秀吉は生前に諸大名の婚姻を許可制とし、勝手に婚姻を結んではならないという掟を出していました。これを破ったことで反感を持った者は多かったでしょう。ただ、当時は平時ではなく戦時といえます。秀吉が没して天下がどうなるか分からないいわば戦時においては、約束破りも戦略・軍略の一つといえます」(小和田氏)
そうした「家康の野望」に気づき、「待った」をかけようとしたのが石田三成だ。三成は「豊臣家による世襲」を政権の理想と考え、家康を弾劾する。だが豊臣政権下で最大の領土(約250万石)を持ち、五大老筆頭の家康に期待をかけ、すでに彼を支持する大名は多かった。秀吉の時代から名を馳せた有力な武将、福島正則・加藤清正・黒田長政・細川忠興などはのちに関ヶ原の戦いで「東軍」につく。すでに福島・加藤・黒田などは先の婚姻にもすんなり応じていた。彼らによる反・三成の動きが、三成を自分の居城である近江佐和山城への蟄居に追い込むが、三成は反・家康派を糾合して決戦を挑むこととなる。(取材/構成・上永哲矢)
※AERA 2023年11月13日号より抜粋