日本橋を覆う首都高の高架撤去を後押ししたのは、地元の町内会や企業関係者らでつくる「名橋『日本橋』保存会」だ。会長の中村胤夫(たねお)さん(86)は「三越」(現三越伊勢丹)の元社長。入社以来、日本橋本店での勤務が43年に及んだ。今も日本橋を歩くと、周囲から次々に声がかかる。中村さんの入社時がちょうど首都高の建設中だった。
「鉄骨などの資材が川べりに山積みされていました。川もヘドロだらけで悪臭が漂い、橋に近寄るのが嫌なほどでした」(中村さん)
当時は高度成長期。物流の要は舟運から陸運に移り、川に目を向ける人はほとんどいなかった。車社会の利便性が増すことに歓迎ムードが漂い、首都高建設に異を唱える声も聞かれなかった。ところが首都高の下腹が橋を覆うと地元に波紋が広がる。
「予想していたよりも高架の位置が低く、地域を二分する壁のような圧迫感があり、街のイメージまで変えてしまった」(中村さん)
なんとかしなければ、と地元の有志が1968年に設立したのが名橋「日本橋」保存会だ。ただ、会の活動目的はあくまで「周辺の環境を守り、地域の活性化を図ること」にとどめた。「首都高の移動・撤去」という悲願を封印した理由について中村さんはこう説明する。
「首都高は国家事業として整備されたため、真っ向から『撤去を』とは言いにくかった。それでまずは橋の清掃やお祭りなどのイベント開催に尽力しました。表向きは『にぎわいづくり』でしたが、たくさんの人に日本橋に来てもらい、こんな景観でいいのか、と問題意識を共有してもらうのが真の狙いでした。地元の人たちの知恵ですね」
箱根駅伝のコースにも
1999年には箱根駅伝の最終区間(10区)が日本橋を経由するコースに変更された。「箱根」を冠した駅伝なのに五街道の起点の日本橋を通らないのはおかしい、と保存会を含む地元が声を上げたのがきっかけだ。
2004年に会長に就任した中村さんが最も苦労したのは、首都高の高架撤去のめどがたたない中、どうやって運動のモチベーションを維持するかだったという。このため、あらゆる場を活用し、「日本橋から青空を見たい」と訴えた。