一流への自分磨きの旅は、まだ続いている。家族や愛犬とのボート旅行を振り返ると、旅は妻と一緒に歩いている、と確認した

 そこで、考えた。印刷枚数が毎分35枚以上の高速高級機は、工程に難しさがあるので、職人気質を持つ英国でつくる。35枚未満の量産型汎用機は、フランスに任せる。部品調達は共同化。いま風に言えば「二つの会社をバーチャルに一つの会社にする」という道だ。

変わっていなかった「怒りのメール」を送った机の位置

 工場と隣接する事務所へ入った。建物は古くなったが、配置もほぼ変わってなく、自分がいた机も分かる。そこで99年半ばに、東京の複写機事業の責任者へ「怒りのメール」を送った。客のところへいって複写機を設置するサービスマンが、客ごとに選ぶ追加機能があまりに多種で、作業に時間を取られ、疲れて意欲が下がっている。多くの人が選ぶ追加機能は、始めから本体に付けておくべきだ──との内容だった。

 複写機事業の責任者は「いままでやってきたことが、なぜやれない」と言って、押し問答で終わる。だが、彼が1年半後に出してきた新機種は、こちらの思いを、ちゃんと受け止めていた。追加機能が一気に減り、サービスマンたちが喜んだ。「従来通りに」は、崩れ始めた。

 工場訪問後、娘2人が通った学校へいった。渡英したとき、長女は6歳、次女は3歳。現地に日本人学校がないうえ、進出した日本企業の家族が増えて学校が「日本人は1学級に何人まで」と制限を設けていた。ようやく決まったのが、自宅から30キロのこの学校だ。まず、長女が通い、間を置いて次女が続く。雅子さんが車を運転して朝9時までに送り、授業が終わる午後3時半前に迎えにいく。片道40分近く、毎日2往復、100キロ以上を走った。

 姉妹は、言葉も生活習慣も違う世界へ、ゼロから順応していかなければならない。姉は、妹のことに目配りもしなければならない。いつも胸中で「苦労をさせているな」と思っていた。のちに「ジャパニーズイブニング」という催しが企画され、借りた浴衣を姉妹も着て踊り、習字で日本語を書くと、級友たちが声を上げて囲んでくれた。友だちもできて、家へ遊びにきたし、日本の雑誌を学校へ持っていくとみんなが喜んでくれた。

 2人は多感な時期、家族が揃う時間が増えて、本当によかった。日本では「仕事漬け」の時代で、英国で半ば強制的に別の暮らし方となり、歩む人生が変わった。そんな話に、雅子さんが「イギリスにいたことを『よかった』と思えるように心がけ、それができた」と頷いた。

 入社3年目の複写機事業部の資材部にいたとき、係長以上の宿泊研修の企画を任され、静岡県沼津市の大中寺で座禅会を催した。それが縁となり、寺の下山光悦住職との交流が続いている。結婚するころ、住職に言われた言葉が、重い。

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