菅原が企画し、職員が総出で地域の人と交わって「多世代がつながれる」夏祭りを開催。「健介は、人を次々につないでいく『スーパーハブ』」(まこじろう福祉事務所執行取締役・鈴木真)(撮影/倉田貴志)

 この親子の救助にかかった経費の大半はぐるんとびーの持ち出しだ。彼らに密接に関わらなくてはならなかった時期は、周囲の同業の仲間に夜勤に入ってもらうなど緊急の応援を頼んだ。

 なぜこんなにも他人に深くかかわることができるのか。

「ギリギリの際で生きる人を見ると共鳴しちゃう。自分が生きづらさを抱えてきたから、僕自身の実存の危機を救うケアでもあるのかなと最近思っていて。息がしやすいよう、社会にスペースをあけているのかもしれない」

 事業の出発点は、東日本大震災での支援活動にある。

 菅原の母、由美(68)は、訪問ボランティアナースの会「キャンナス」の代表を務める。潜在看護師を活用し災害支援などを行う、日本最大規模の医療ボランティア団体で、その活動の功績が認められ、多くの団体から表彰されているカリスマ社会起業家だ。父、雅之(68)は20代で脱サラし、中古車販売を手がける経営者。趣味人で、オフロードバイクの全国大会で入賞した経験もある。

 幼い頃から両親は土日も働きづめで、キャッチボールは友達のお父さんと。外食が多く、煮炊きの匂いがしない家で「どこか寂しさはあった」(菅原)。多動傾向があり、遅刻や忘れ物は日常で、学校で叱られることも多々あった。

「僕の自己肯定感を育んでくれたのは、一緒に住んでたばあちゃん。いつでもほめてくれたから」

 母の導きもあり、中高一貫校の東海大学付属デンマーク校(08年閉校)に進学。中学高校時代はデンマークで過ごした。

 現ぐるんとびー取締役の川島勇我(45)は、同校サッカー部に在籍していた菅原の先輩。その頃の菅原は「自信がない人に見えた。ほとんど印象に残っていない」という。

 菅原自身、コンプレックスの塊だったと話す。

「母は常に否定から入ると感じていた。僕が小学校の時にサッカーにハマりかけたら『そろばんをやりなさい』。僕は親の許容範囲内でしか自己表現できず、すべて中途半端になった」

 だが、由美はインタビューで、「健介には、なんでも自己選択させてきた」と話すように、親子の認識は、大きくすれ違う。

 帰国して東海大学を卒業した後は、IT広告会社の営業に。景気が傾くと不安定な職種だと悟り、医療の国家ライセンスを取得したいと考えた。母からリハビリ職の理学療法士の受験を勧められ、資格取得後にリハビリ病院就職する。

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