「やりたい!」が湧き出す菅原は、発熱体そのもの。新しい事業を軌道に乗せるまでの試行錯誤も、そのまま発信する。妻の有紀子は笑って「表も裏も菅原健介」という(撮影/倉田貴志)

 就職して2年後に、東日本大震災が起きた。藤沢で小規模多機能型居宅介護などのケア事業所を運営していた母から、

「私の代わりに現場に入って、キャンナスの人と物資のコーディネーター役を引き受けてほしい」

 と頼まれた。そこで菅原は病院を辞し、宮城県の石巻や気仙沼で1年半にわたり活動に専念する。

 現地では、国家資格を持つ看護師がキャベツをザクザクと切っていた。逆に、被災者のもとに駆けつけた無資格の若い女性が、傾聴に徹して現場の真の困りごとを鮮やかに探り当てる景色も見た。

「専門性ってなんだろうと考えましたね。災害現場では、医療とか介護とか価値観を固定化しないで、『本当に必要なケアとは?』って、とことん考え抜く姿勢が大事だと気づいたんです」

 支援現場での経験から、菅原はいざという時に困らないため、「平時からつながり、助け合える地域をつくりたい」と考えるようになった。この防災感覚こそが、後に「高齢化の大津波に備える」という視点に立ったまちづくりの構想に結びつく。

 活動を終えてからは、母の介護事業所で働いた。しかし、ケアのことでは必ずしも母と方針が合わなかった。母も柔軟に考えるタイプだが、菅原は輪をかけて柔軟な対応とケアを求めた。それを実現するには、時に医療の常識の枠の中から飛び出す必要があった。さらに親子だからこそ、些細(ささい)なことでぶつかり合う。激しい喧嘩(けんか)を展開して退職。35歳の時に「ぐるんとびー」を起業した。

 地域を一つの大きな家族に。身近に関わる人たちが責任や思いやりを少しずつ共有し「ほどほどの幸せ」がある地域社会を形づくる──。

 大きな理念を掲げ、菅原は走りだす。

(文中敬称略)(文・古川雅子)

※記事の続きはAERA 2023年10月30日号でご覧いただけます

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