自分の中の歪みが“恐怖”の存在になる
しかし“例外”もいる。それは富江や双一、四つ辻の美少年などの“異形の存在”だ。これらの共通点をひとつ挙げるとすれば、それはすべて自分自身に帰結するということだ。個性が立っているキャラクターは、自分に内在する感情や記憶を反映させて、極端なほど拡大解釈して作られている。
異形の存在が、自分の分身である理由のひとつは、自分と似た部分があるほうがキャラクターを描きやすいということ。もうひとつは、私がもっとも恐ろしいと考えるキャラクターが「自己愛が異常に強い人間」だということだ。
自己愛性パーソナリティ障害、つまり「ナルシスト」を恐れる感覚は、デビュー作『富江』から一貫してあった。富江は私の考え得る究極のナルシストの具現化だ。これほどまでに私がナルシストを恐れるのは、私自身の中に、屈折した自己愛が見て取れる部分があるからかもしれない。
私がナルシシズムに感じる一番重要な点は、自分と他者の間にある「世界のズレ」だ。やや飛躍した言い方になるが、ナルシシズムというのは、各々の世界に対する“認知の歪み”であるといえるかもしれない。それを目の当たりにするとき、私はまるでぽっかりと口を開けた底のない穴を覗き込んでいるような、言い知れぬ恐怖を覚える。
自分が捉えている世界と、相手が捉えている世界の違い。
自分が思う自分と、相手が思う自分の違い。
ナルシシズムが強いほど、その歪みは激しくなる。話し合いでは到底修復できないほど、広く、深く。私が恐れる異形の存在は、普段は目を背けているそうした矛盾を眼前に示し、我々は分かり合えないという絶望を、まざまざと見せつける存在なのかもしれない。