このサムシング・エロス(ふるさと思慕と探究)は、必然的に「魂のふるさと」すなわち安心や信頼の拠り所と「孤独」との間の往還となり、そこに「無常」という世界観も、「悲嘆」の感情も、「慰霊・追悼・鎮魂」の儀礼のわざも生まれてくる。それらがさまざまな文学作品や宗教思想や宗教活動となって現われ出る。たとえば「マレビトという言葉は、『魂のふるさと』のよそ者、『魂のふるさと』から追放された人という意味合いも含むものだった」と折口信夫の「原初の孤独」を浮き彫りにする箇所など。

 著者はそれらを確かな選択眼で取り上げ、親切な語り口で読者の心前にやさしく差し出す。その手つき、目配り、心配りに、「島薗学」五十年の発酵と熟成を見る。

 本書には、随所に著者の視点、作品選択眼、独自の解釈と洞察が見られる。たとえば、漢詩と和歌や俳句との違い。鴨長明と小林一茶や野口雨情の無常の違い。折口信夫と出口王仁三郎と太宰治のスサノヲ観の共通項と微妙な差異。紀貫之の『土佐日記』の「悲嘆の文学」の側面のみならず「笑いの文学」や「憤りの文学」の側面の考察など、注意深く先行研究を参照しながらも著者独自の考察を上書きし、これまでとは異なる局面や文脈やフレームワークの中に位置付けていく。そこに半世紀の学道の熟成が滲み出る。

 そして最初と最後に、『おらおらでひとりいぐも』の次の一節が取り上げられる。「帰る処があった。心の帰属する場所がある。無条件の信頼、絶対の安心がある。八角山へ寄せるこの思い、ほっと息をつき、胸をなでおろすこの心持ちを、もしかしたら信仰というのだろうか。八角山はおらにとって宗教にも匹敵するものなのだろうか」

 だが「帰る処・心の帰属する場所」を持ち「無条件の信頼」を寄せ「絶対の安心」を抱くことは簡単ではない。現代の気候危機の中で世界中の山河が大きく変化しているからだ。いつ何どき土砂崩れや崩落に見舞われるかわからない危機的な状況にある。そうした中で「魂のふるさと」という定点に行き着けず、漂流する死生観を生きるほかない人びとへの次なるメッセージが必要であろう。

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