安倍晋三政権、菅義偉政権、特に現在の岸田文雄政権は、集団的自衛権に敵基地攻撃能力の保有と「敵」を想定して防衛費だけはどんどん膨らませているが、日本を取り巻く安全保障環境が厳しさを増している、と言うのであれば、なおさら梶山氏の言葉は重みを増す。
「軍備を増強しても、それを使わないという外交をセットでやらなきゃダメなんだ。それが政治だ」──。
梶山氏の思いを直接受け止めたジャーナリストの鈴木哲夫氏は、今こそ外交とのセット論が重要だと強調する。
「例えば敵基地攻撃の問題は、相手が攻撃の準備をしたらこちらがミサイルを撃つのか、相手が発射してから撃つのか、というタイミングや方法論ではない。そもそも、敵の基地に向けてミサイルを構えるということは、ミサイルの発射ボタンを押す覚悟があるのかどうかということです。発射すれば向こうで人が死ぬかもしれない。逆に向こうからも撃たれて、日本人が犠牲になるかもしれない。そんな凶器を持つ覚悟は私にはできません。ならば、どうするか。こちらも相手もミサイルを使わない、使われないようにするためにできることって外交努力じゃないですか。その知恵を絞ることを、もっと政治家も国民も皆が考えたらどうかと思う。戦争国家になろうとしているわけではないのですから」(同前)
こんな時代に平和外交を説くのはお花畑の議論だと揶揄する向きがある。
あれほど反対の熱気があった違憲の安保法制を、8年経った今、否定する世論はほとんどない。そして、ウクライナ侵攻により、軍備拡大は「仕方ない」として、是とする空気すら広がってきた。
しかし、防衛増強という「抑止力」に過度に頼ることこそお花畑ではないのか。抑止力には際限がない。むしろ必要なのは、有事にならないためにどうするのか、である。