しかしながら人間はだれもが老います。老いは避けられないのですから、否定しても意味がありません。肯定的に語るすべをもたなければなりません。

 では、老いるとはなんでしょうか。それは、若いころの過ちを「訂正」し続けるということです。30歳、40歳になったら20歳のころと考えが違うのは当然だし、50歳、60歳になってもまた変わってくる。同じ自分を維持しながら、昔の過ちを少しずつ正していく。それが老いるということです。老いるとは変化することであり、訂正することなのです。

 日本には、まさにこの変化=訂正を嫌う文化があります。政治家は謝りません。官僚もまちがいを認めません。いちど決めた計画は変更しません。誤る(あやまる)と謝る(あやまる)はもともと同じ言葉です。いまの日本人は、誤りを認めないので謝ることもしないわけです。

 とくにネットではこの傾向が顕著です。かつての自分の意見とわずかでも異なる意見を述べると、「以前の発言と矛盾する」と指摘され、集中砲火を浴びて炎上する。そういう事件が日常的に起きています。

 2020年代に入り、2ちゃんねる創設者のひろゆきさんを中心にした「論破ブーム」が巻き起こり、その傾向がますます強くなりました。論破するには相手の発言の矛盾を突けばいい。過去と意見が変わっていれば、それだけで負け。そういう判断基準が若年世代を中心に広く受け入れられています。このような状況では、謝るどころか、議論を通じて意見を変えることすらできません。

 政治的な議論も成立しません。政治とはそもそも絶対の正義を振りかざす論破のゲームではありません。あるべき政治は、右派と左派、保守派とリベラル派がたがいの立場を尊重し、議論を交わすことでおたがいの意見を少しずつ変えていく対話のプロセスのはずです。しかし、現状ではそんなことはできない。

 とくに最近の左派の一部は頑なです。彼らはどんな説明を聞かされても意見を変えません。むしろその頑なさが「ぶれない」として評価されている。そのため政府側も彼らをクレーマーとして扱い、真剣な議論を行わない。政権側も反政権側もおたがいが「相手は変わらない」と思い込んでいるため、議論が始まらないわけです。あるのはいつも同じ「反対してるぞ」アピールだけです。

 議論が始まるためには、おたがいが変わる用意がなければなりません。ところがいまの日本では、その前提が壊れています。みな「議論しましょう」とは言うものの、自分自身が変わるつもりはなく、むしろ変わってはいけないと思っているのです。

 そのような状況を根底から変える必要があります。そのための第一歩として必要なのが、まちがいを認めて改めるという「訂正する力」を取り戻すことです。

東浩紀/批評家・作家。株式会社ゲンロン取締役
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東浩紀

東浩紀

東浩紀(あずま・ひろき)/1971年、東京都生まれ。批評家・作家。株式会社ゲンロン取締役。東京大学大学院博士課程修了。専門は現代思想、表象文化論、情報社会論。93年に批評家としてデビュー、東京工業大学特任教授、早稲田大学教授など歴任のうえ現職。著書に『動物化するポストモダン』『一般意志2・0』『観光客の哲学』など多数

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必要なのは「訂正する力」を取り戻すこと