歌川広重筆「名所江戸百景・日本橋雪晴」。1856(安政3)年に描かれたものだ(出典 ColBase https://colbase.nich.go.jp/)
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 2023年10月1日に放送された大河ドラマどうする家康」の第37回は、「さらば三河家臣団」と題され、北条攻めから徳川家康の江戸入封までを描いた。印象に残ったのは、ラスト近くで松本潤演じる家康が「街を一からつくるというのはおもしろい」という趣旨の発言をしていたことだ。

【写真】家康プロデュースで現在の東京に近づいた江戸

 実際、現在の東京の原型となる江戸のインフラ整備は、家康の封入から始まったと言っていい。オンライン予備校で「日本一生徒数の多い社会講師」として活躍する伊藤賀一氏が監修した『テーマ別だから政治も文化もつかめる 江戸時代』(かみゆ歴史編集部編)は、家康がどんなふうに江戸の整備を進め、それを2代目秀忠、3代目家光がどう引き継いだのか、地図を交えて解説している。この本を引用しつつ、徳川三代の街づくりについて見ていきたい。

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「江戸」の地名は「入り江の入り口(戸)」が由来とされる。当時は江戸城の眼下まで日比谷入江が伸びており、城周辺は湿地帯や砂州が広がっていた(図版 ウエイド)

 家康が秀吉の命で江戸に入封したのは、1590(天正18)年のことである。家康は城よりも城下の開発を優先し、まず、運河の開削に取り組んだ。現在の東京から想像するのは難しいが、江戸は縦横に水路や運河が張りめぐらされた「水の都」だった。北条時代から江戸湊は水運の要所だったが、江戸に入った家康は物資や資材の輸送の便を確保するため水路の開削に取り組み、その結果、水の都の様相を呈していく。

 家康は、道三堀と呼ばれる舟入堀を開削して隅田川と利根川を結ぶ運河を造成。東国最大の塩生産地だった行徳(現・千葉県市川市)と江戸を結び、生活必需品の塩の調達ルートを確保した。また、江戸に運ばれる物資は、大坂から千石船で江戸湊の鉄砲洲あたりまで運ばれ、そこで小型の伝馬船に移されたのち、隅田川をさかのぼって日本橋川などから市中にもたらされた。

 城下に飲料水を供給するため上水道(のちの神田上水)も開削し、江戸城周辺の小河川をせき止めて千鳥ケ淵と牛ケ淵を貯水池とした。

道三堀と日本橋川が運河として機能し、城下町が発達。埋め立てられた日比谷入江跡地は、大名屋敷が並ぶ武家地となった。北の丸・西の丸など城の拡張も進む(図版 ウエイド)

 本格的な工事が始まるのは江戸開府後である。諸大名を動員して神田山を切り崩し、日比谷入江や江戸前島の砂洲を埋め立てて市街地を造成。江戸城東側の番町や麹町に旗本の居住地が整備され、桜田・霞ケ関などに主要な大名の屋敷が建てられた。

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