町人町は道三堀の両岸に最初の町屋が形成された。開府後、この堀を東に延長して日本橋川を開き日本橋を架橋。やがて商人・職人の集住が進み、江戸経済の中心地として発展する。

 家康入封前、江戸城周辺にあった寺院は、城の拡張工事に伴い移転され、八丁堀や麹町などに寺町が形成された。江戸城防衛のための戦略的配置といわれるが、低湿地の造成をうながす狙いもあったといわれる。

 1605年(慶長10)年に家康から将軍職を継いだ2代秀忠は、平川や小石川の流路を変え神田川とつなげた。江戸城本丸御殿を造営したほか、二の丸、石垣などを拡張し、大名屋敷を囲む内郭も完成させた。 

天下普請によってさらなる開発が進む。駿河台が掘削され、平川の流れをかえて新たに神田川が成立。溜池から外堀がのび、神田川とつながって惣構を形成した(図版 ウエイド)

 1623(元和9)年に将軍となった 3代家光の時代には、溜池から赤坂・四谷・牛込へと至る外濠西側を開墾。内郭の外に広がる城下町までを堀と石垣で囲んだ惣構(そうがまえ)が整備された。

 江戸の拡大を促進したのが、1657(明暦3)年に起きた明暦の大火だ。延焼防止のために大名屋敷や寺院が郊外に移された。海や湿地も埋め立てられて居住区域が拡大し、元禄時代までにいわゆる大江戸八百八町が成立。人口は100万人を超え、同時代のパリや北京を超える世界最大の都市に発展した。

(構成 生活・文化編集部 塩澤 巧)

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