前述の通り、『信長公記』の記述に従えば、信長は中島砦に移動している。中島砦は川の合流点に築かれた砦で、付近では最も低い場所にある。したがって信長の移動が今川方に気づかれぬはずはない。実際、義元は旗本と共に後方に待機し、本隊の一部隊(藤本氏はこれを「前軍」と呼んでいる)を前進させ、中島・善照寺砦の両砦に備えている。今川軍の警戒態勢を承知で中島砦に移った以上、隠密に行動して義元に奇襲をかける意図は信長になかったと藤本氏は推定する。

『信長公記』には、信長が「おけはざま山」の「山際」まで軍勢を進めたところで豪雨となり、その雨が上がったところで戦闘を開始したとあり、豪雨がある程度の隠蔽効果を発揮した可能性はある。だが同書を読む限り、信長は中島砦を出て東に進み、東向きに戦ったと考えられる。藤本氏が評するように、「堂々たる正面攻撃」であり、迂回奇襲ではない。

信長の勝因は何か

 藤本氏が主張する通り、織田信長が今川義元に対して正面攻撃をかけたとすると、人数的に劣勢のはずの信長が義元の大軍に勝てた要因が問題になる。この難題を解くために、藤本氏は太平洋戦争のミッドウェー海戦を参照している。

 戦力的に優勢であった日本の南雲艦隊がアメリカ太平洋艦隊にミッドウェーで惨敗した理由として、作戦目的の二重性が挙げられている。聯合艦隊司令部は、ミッドウェー島の攻略と米機動部隊の撃破という二つの目的のどちらを優先するか作戦立案の段階で詰めていなかった。このため、南雲艦隊の機動部隊がミッドウェー基地を攻撃している最中に、米機動部隊が出現した時、南雲艦隊の対応は遅れ、米機動部隊から一方的な攻撃を受けてしまった。

 桶狭間合戦における今川義元にも同様のミスがあった、と藤本氏は指摘する。義元の当面の目標は、織田方の五つの砦を攻略することにあったが、信長率いる織田軍主力部隊を有利な条件で捕捉できれば、決戦も視野に入れていた。だが義元は砦の攻略と信長の撃滅について、明確な優先順位を定めていなかった。このため、砦を攻略している最中に信長が主力を率いて介入してくると、今川軍は想定外の事態を前に大混乱に陥ってしまったのである。

 藤本氏は「今川軍は、信長不在という前提に立って、作戦を進めてきた。そこに信長出現という計算外の事態が生じた時、対応が遅れるのは当然であろう。(中略)彼ら(筆者註:今川軍の「前軍」)は、背後にいる義元にお伺いをたてて行動せねばならず、信長が陣頭指揮を執る織田軍とは、決断力と実行力において、はじめから大差が付いていた」と論じている。対応の遅れにより今川軍の前軍は崩壊し、織田軍は前軍を破った勢いで、義元の本陣になだれ込んだのである。

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