むろん、この『信長公記』の記述は以前から知られていた。けれども、これまでの研究者・作家らは『日本戦史』の迂回奇襲説に惑わされて、先の記述を軽視してきた。たとえば徳富蘇峰は、「……と、太田牛一は記したが、その実は中島には移らず、善照寺より、田楽狭間の方に赴いたと、信ずべき理由がある」と述べ、『日本戦史』の説を採用する。しかしながら、『日本戦史』の当該記述の根拠は『桶狭間合戦記』などの軍記類なので、より信頼性の高い史料である『信長公記』の記述を却下する理由にはならない。

 そもそも、信長が善照寺砦から東に進んで山中を大迂回し、義元の本陣の背後に回ったという通説は、作戦行動として不合理なのである。藤本氏が説くように、迂回する信長軍が鳴海方面に展開する今川軍先鋒に発見されない保証はないし、田楽狭間到着前に義元が本陣を移さぬ保証もない。

 また、『信長公記』によれば、義元の本陣は田楽狭間ではない。義元は沓掛城と、鳴海城および大高城の間にある「おけはざま山」で休息している。通説では、桶狭間・田楽狭間という地名から、今川軍本隊は谷底にいたように考えられているが、実際には義元は見晴らしの良い丘陵地帯に布陣しており、織田軍の動きを眼下に収めていた。今川軍は鷲津・丸根両砦も落としており、善照寺砦の信長が今川軍の監視を逃れて進軍することは不可能である。藤本氏は「信長が進軍中に、鷲津・丸根砦が落ちたことを知ったにもかかわらず、善照寺砦に入ったということは、彼が最初から、その行動を隠蔽する意思がなかったことを示しているのである」と指摘している。

 藤本氏は言う。仮に信長が最初から義元の首を狙っており、しかも義元の居場所を把握していたなら、迂回路などとらず、善照寺砦から中島砦を経由して義元が布陣する「おけはざま山」に至る直線的な最短ルート(約三キロメートル)を全速力で急行するだろうと。遠回りをして時間を浪費している間に義元が移動してしまったら元も子もないからである。

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信長の勝因は何か