戦国時代の合戦の中でも特に著名なのは、桶狭間の戦いだろう。織田信長が少数の軍勢で今川義元の大軍に挑み、敵の大名当主を戦場で討ち取った。桶狭間合戦の劇的な勝利は、信長の天才性・先進性を示すものとして現代まで語り継がれている。だが、歴史学者の呉座勇一氏によると、大胆で意表を突いた迂回奇襲作戦ではなかったという説が浮上しているという。『動乱の日本戦国史 桶狭間の戦いから関ヶ原の戦いまで』(朝日新書)から一部を抜粋、再編集して解説する。
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迂回奇襲という虚構
織田信長は善照寺砦から間道を通って田楽狭間の背後の太子ヶ根山に回り、谷底に布陣していた今川義元に対して奇襲を行った、と考えられてきた。この迂回奇襲説を信長の天才的作戦として世間に広めたのは『日本戦史 桶狭間役』(一八九九年)に全面的に依拠して桶狭間合戦を活き活きと叙述した徳富蘇峰の『近世日本国民史』である。そして『日本戦史』が利用した史料は『甫庵信長記』や『桶狭間合戦記』といった江戸時代の物語であった。
これに対し一九八〇年代、在野の歴史研究者である藤本正行氏は、『信長公記』を丁寧に読み解き、同書には信長軍が大きく迂回して今川軍の背後をとったという記述がないことを発見した。すなわち、『信長公記』には、善照寺砦の信長は、家臣たちの反対を「ふり切って中島へ御移り候」と明記されている。これに従えば、信長は善照寺砦からすぐ南の中島砦に移っているのである。