今川氏真像(国文学研究資料館所蔵)
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 歴史学者・黒田基樹氏は、新著『徳川家康と今川氏真』(朝日新聞出版)で、家康にとっての氏真の存在を多角的に分析し、いかに家康に影響を与えたのかを記している。特に、氏真が京都で生活するようになってからの関係は、その全容は明らかになっていないにせよ、何らかのコミュニケーションを撮り続けていたのではないかと同氏は推察する。同著から一部抜粋、再編集し紹介する。

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 家康は駿河を領国化すると、本拠を駿府に移した。これは当時の領国全体を統治するうえでの利便性によるであろうが、その一方で海道筋三ヶ国を領国とするようになり、いわば今川家に取って代わった存在になったことで、かつての今川家の本拠であった駿府こそが、その本拠に相応しいという観念もあったことであろう。少年期から青年期に、今川家の最盛期を駿府で過ごしたかたちになる家康にとって、駿府こそが、理想の本拠という認識があったかもしれない。

 しかし同十八年に北条家滅亡をうけて、家康の領国が関東に転封されたのを機に、氏真は家康の側から離れて、京都で生活することになった。家康からは所領を与えられていたらしいから、家康から離れたわけではなかった。しかも翌年から、家康は、当時の政権の羽柴(豊臣)政権に従う「豊臣大名」として、嫡男秀忠ともども京都・大坂での居住を基本にした。これによりむしろ、家康は、日常的に氏真との交流を維持したとみることもできるであろう。そして何よりも秀忠の上臈として貞春尼が存在し続けていた。徳川家と今川家は、日常的に繋がっていたのである。

 氏真の京都での生活の全容は判明しない。それでも家康とは、引き続いて交流していたことであろう。家康は慶長十一年に江戸に下向し、同十二年に駿府城を本拠にしてから、ほぼ上洛しなくなる。家康が再び自身の本拠に駿府を選んだのは、やはり同地に対する愛着によるように思う。しかしこれによって家康と氏真は、しばらく面談できない状態になった。慶長十七年四月に、氏真はついに徳川家の本拠・江戸に移住する。その途中で駿府を訪れると、ただちに家康は氏真と面談におよんでいる。家康にとって、氏真がいかに特別の存在であったかが、端的に示されている事実といえるであろう。

 その二年後に氏真は七七歳で死去し、さらにその二年後に家康が七五歳で死去する。両者の交流は、六〇年以上におよぶ長期のものであった。しかも両者は、ともに戦国大名家・国衆家当主として領域国家を主宰する国王の立場にあり、少年期からともに過ごしてきた間柄にあったことを想えば、長い人生のなかで両者の立場には変化がみられたものの、互いに戦国を生きる盟友として認識しあっていたのではないかと思わずにはいられない。

 そして家康は、「天下人」として戦国争乱を終結させる存在になったが、その過程において、領国統治や奥向き構造など、今川家の教養・文化に支えられていた。このようにみてくると、家康という存在は今川家あってのものであった、といってもよいほどであろう。家康と氏真が、死去の直前まで交流を続けていたことも、そう考えると納得できるように思う。

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