天正七年に家康の三男で、のちに嫡男にされる秀忠が誕生すると、その「御介錯上臈」、すなわち後見役の女性家老に、氏真妹の貞春尼が任じられ、また後見役の乳母に今川家旧臣の娘「大姥局」が任じられた。これは秀忠の養育が、今川家の関係者によっておこなわれたことを意味する。それにともなって徳川家の奥向きの構造も、今川家の作法で確立されていったことであろう。さらに同年に家康が北条家と同盟を形成するにあたっては、氏真家臣がその使者を務めた。氏真は北条家と旧知の間柄にあったため、北条家との関係を取り持つ役割を果たしたのである。そして家康にとって、北条家との同盟は、武田家との抗争において攻勢にでていく契機をなし、駿河への侵攻を開始するのであった。
ここまで氏真は、家康の領国統治や奥向き構造、さらには外交関係にも大いに助力していたとみることができる。かつての経験や教養が、十分に家康に寄与し、それを支えていたといえよう。しかし同十年に信長により武田家が滅亡し、駿河が家康に与えられて以降、氏真の動向はあまり確認されなくなる。家康は信長に、かねての約束から氏真に駿河半国を与えられるよう申請したらしいが、信長からは却下された。これにより氏真の駿河復帰の夢は完全に絶たれることになる。以後は家康のもとで、その家臣として生涯を過ごすほかはなくなった。それでも氏真の存在は、高い教養と政治的地位から、対外関係において貢献したことであろう。